西郷隆盛は菊池の一族か2017/12/28

西郷隆盛が勤皇僧月照と錦江湾に身を投げて一人助かった後、幕府の追跡から逃れるため、ともに死んだことにして、菊池源吾と改名して奄美大島に身を潜めたのは有名だ。

なぜ「菊池」か。
例えば、勝部真長『西郷隆盛』(PHP文庫)にあるように、「西郷の家系は、南朝の忠臣といわれた菊池武光の系統をひくもので、元禄年間に肥後から薩摩に移住して、島津氏に仕えたものとされている」というような説明が一般的だ。

その根拠はどうかというと、伝説みたいなもんだろうと思っていた。
しかし、全くの伝説とばかりも言えないようだ。

海音寺潮五郎の『武将列伝江戸篇』(文春文庫)の「西郷隆盛」によると、蒙古襲来の時の記録に菊池の一族に「西郷隆政」という人物名がある、という(p230)。
ここから海音寺は「菊池源吾とあるのは、西郷家は肥後菊池氏の子孫であるからであった」と断言している。

西郷としては自らを「南朝の忠臣」になぞらえたかったというのもあるだろう。
南北朝時代は、天皇親政を目指す後醍醐天皇(南朝)が1333年、鎌倉幕府を滅ぼし、1336年に足利尊氏が北朝を擁立したところから始まる。

まさに幕末の勤皇倒幕にそっくりな構図であり、西郷が1858年の時点で自らを「南朝の忠臣」の末裔と考えていたのは興味深い。
まさに未来を予見するかのようだ。

さて、その菊池武光だが、ここ小郡に縁が深い。
後醍醐天皇は息子(親王)が8人もいて、その一人、懐良(かねなが)親王が菊池武光とともに1359年、小郡の大保原で北朝方と激突した。九州南北朝最大の合戦と言われる、大保原合戦だ。
現在も「大保」という地名が残っている。
また、宮が陣をしいたので「宮ノ陣」、戦いのあと菊池武光が川で刀を洗ったから「大刀洗」。
地名を残すのは大事だ。

大刀洗町の公園には、菊池武光の像が建つ(写真を撮っているはずでだいぶ捜したが見つからず)。
大刀洗には戦時中、大きな飛行場があったので、銅像には米軍によるたくさんの弾痕が残っている。

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