土器の違いは食生活の違い?2023/06/03

複雑怪奇な縄文土器が、なぜシンプルな弥生土器に劇的に変わったのか、正直よく分からなかった。
こういう根本的な問題ほど、明快な説明がないのは世の常。

福岡市博物館の展示にヒントがあった。

弥生時代は水田稲作が始まった時代。
当然、炊飯は土器だ。

新しい形の煮炊き用土器が普及し始める(板付式)。
ふちが外に張り出して蓋をかけやすい(のせやすい)、持ちやすいという。

大型の土器でいろんな食材をごった煮にした縄文時代と、米だけを炊く土器が現われた弥生時代の違いということかな。

しかし、なぜ弥生土器の蓋は出ないんだろう。
いや、正確に言うと、土器の蓋は出ているようだ(見たことはないが)。
でも普通に考えて木製の蓋を使っていたと思うのだが、木だから腐って残っていないんだろうか。

また、縄文と弥生とのデザインの違いは、素人考えだが、縄文の食事がある意味、祝祭的な空間だったのに対して、弥生ではそうした意味を失ったせいではないだろうか。

リアル羽白熊鷲2023/06/04


今年2月1日付で2回にわたって「羽白熊鷲」について書いた。
その名の通り、翼があって高く飛ぶことができたという。
鳥人か鳥装した司祭か、はたまた天狗の元祖かと考察してきた。

まさに打ってつけのビジュアルを見つけた。
東博の古代メキシコ展で近く展示される、鷲の戦士像である。
どちらも鷲であるところが興味深いが、時代はかなり違う。
鷲の戦士像はアステカ文明の1469~86年。
羽白熊鷲は神功皇后の時代、4世紀である。1100年違う。

古代メキシコ展は10月、九博にも巡回する。
170cmもあるという、鷲の戦士像に会えるのが楽しみだ。

ところで、羽白熊鷲が神功皇后に討たれた「層増岐野(そそきの)」という所は、語感からして今の筑紫野(つくしの)だと考えている。
というのも、熊鷲を討って皇后は「心安らかになった」として、そこを安(夜須)と名づけたからだ。
夜須は現在、筑前町だが、筑紫野市との境にある。

そうすると、羽白熊鷲が「命尽くしの神」として筑紫神社に祀られたというのが地理的にも自然である。

原田大六が面白い2023/06/07

在野の考古学者、原田大六(1917-1985)が面白い。

福岡県糸島市を拠点に活躍。平原遺跡の発掘調査で有名なことは伊都国歴史博物館を訪ねて知ってはいたが、その時点ではあまり興味を持たなかった。

装飾古墳に関する良い文献を探すうちに、国会図書館デジタルコレクションで原田大六『磐井の叛乱』(1963)を知り、読んで驚いた。

五郎山古墳の壁画に描かれている家屋が筑紫神社だというのだ。

これをきっかけに、五郎山古墳の被葬者が分かった(4/30参照)。
この詳細はしかるべき形で発表したいと考えている。

古書で『新稿 磐井の叛乱』(1973)を購入して読んだが、やはりすごかった。私の興味あるところが全て網羅されている。

以来、嵌まってしまってデジコレでちょこちょこ読んでいるが、目から鱗のことが多い。例を挙げよう。

日本書紀や七支刀銘文、広開土王碑文によって明らかなように、日本は4世紀半ばから朝鮮半島南部(いわゆる任那=加耶)を勢力下に置き、百済や新羅を服属させている。

とにかく日本は戦の強い国だった。
百済や新羅が困ったときには軍隊を派遣してやって、そのお礼にいろんな文物を献上されるという関係だったのである。
日本の輸出品は軍事力、輸入品は技術工芸だったともいえる。

しかし、6世紀になると、朝鮮半島が乱れてくる。
562年には新羅が任那日本府を滅ぼす。

原田大六は「任那に山城を築いて防戦したということも無かったらしい。日本軍は攻撃法は知っていたが退却して防戦する方法を知らなかったのであろう」と指摘する(『考古学研究』(1959.12)掲載の「神籠石の諸問題」)。

日本本土にも防衛施設はなかった。
「古墳文化前期から中期まで、いや後期にさえも、神籠石が姿を見せる以前には、日本には大軍を迎え撃つに足る城塞らしきものは全く見受けない」

こうして6世紀末から九州各地に神籠石が築かれるが、今度は完全防備に徹してしまって攻撃には適さないものを造ってしまった。原田大六は「愚城」とこき下ろしている。

これで分かった。
日本は663年に白村江の戦いで負けてから慌てて、水城、大野城、基い城を築くのだが、そのとき国を失って日本に来ている百済人を遣わして築かせたと書記に書いてある。
日本には巨大古墳を造る土木技術が既にあったのに、百済人に教わる必要があったのかと疑っていたが、日本人は実戦向きの城を築いたことがなかったのだ。

このほか、原田大六『卑弥呼の墓』(1977)には、強烈な松本清張批判が書かれている。
私も松本清張の古代史本はよく読んでいるので、時間の無駄だったかと腹立たしい思いがする。古代史好きには注意を促したい。

国会図書館恐るべし2023/06/07

国立国会図書館オンラインの所蔵資料検索で、試しに「宮田俊行」と入れてみると、私がこれまで書いた単行本や文章8件が過不足なく出てきた。

原田大六の師、中山平次郎2023/06/12

昨日は青山繁晴議員の独立講演会で福岡市に出たので、その前に福岡城内の鴻臚館跡展示館に寄った。

すると思いがけず、原田大六が師事した中山平次郎の記述に遭遇した。

中山こそがそれまでの定説を覆して、鴻臚館は福岡城内にあったと唱えた人だったのだ。
そしてその通りに見つかった。

原田大六も凄いが、その師も凄かった。

鴻臚館の前身、筑紫館2023/06/12



この説明によると、白村江の戦の後まもなく、この地に「筑紫館(つくしのむろつみ)」が造られたという。
そうなると大宰府や水城、大野城・基い城と同じく、防衛施設の性格が強かったと考えられる。大宰府よりも最前線だからなおさらだ。

ところが、20年後の688年には、にっくき相手のはずの新羅の使者をもてなしたという。
日本書紀を確かめると、それ以前から筑紫でもてなしたという記事を散見する。
どうもこのあたりは勉強し直す必要がありそうだ。

筑紫館があった場所


反対者は晒し者2023/06/14

今国会の真の焦点であるLGBT法案の衆院本会議での採決で、自民党の高鳥修一議院は「おなかが痛い」と言って退席した。

同じく同案に反対の杉田水脈議員は、本会議に欠席して採決に参加しなかった。

政治家でも、大勢に逆らうときにはこんな惨めなやり方をしなければならない。

私にも経験がある。

おそらく会社を辞める前年、2007年のことだったと思うが、会社の重要案件を審議する株主総会か臨時株主総会だったかが開かれた。

会社の無意味な、というか、大失敗の本社移転強行以来、頭に来ていた私は、こんどこそ反対の意思表示をしなければならないと思い詰めていた。

株主総会といっても、社員持ち株会社なので、出席者は全員社員だ。

4、500人が一つの部屋にぎゅうぎゅうに集まった。

株主総会は社長が司会をするが、そのときは総務部長クラスが議案を説明し、採決に入った。

まず、「議案に反対の方はご起立ください」という。

いいですか?
反対の人は起立ですよ。賛成の人は起立じゃないんですよ。

私は意を決して起立した。
数人が立った。

4、500人の中の数人ですよ。

見たら秒で数えられるのに、総務部長は一向に「反対は〇人、よって議案は可決されました」と言わず、反対者をずっと立たせたまま。

要は皆の前で晒し者にしているのだ。長い長い時間だった。

屈辱の思い出である。