俳号は蕪介 ― 2022/01/30
今、神田伯山の「寛永宮本武蔵伝」を連日、拝聴しているわけだが(今日が千秋楽)、武蔵はあまりに世に名が知れ渡っているため、道中よく偽名を使う。
その名を「宮田ぶすけ(字が分からない)」という。
ちょうど、これも何かの縁だ。
私の俳号を「蕪介」にすることにした。
「蕪」はもちろん与謝蕪村の蕪だ。
師匠もいない、句会にも属さない私が、唯一の師匠とするのが与謝蕪村だ。
記念すべき一句目は、一昨日しるした句となる。
両刀を構えて冬の武蔵伝 蕪介
その名を「宮田ぶすけ(字が分からない)」という。
ちょうど、これも何かの縁だ。
私の俳号を「蕪介」にすることにした。
「蕪」はもちろん与謝蕪村の蕪だ。
師匠もいない、句会にも属さない私が、唯一の師匠とするのが与謝蕪村だ。
記念すべき一句目は、一昨日しるした句となる。
両刀を構えて冬の武蔵伝 蕪介
神田伯山「寛永宮本武蔵伝」通し公演 ― 2022/01/28

さて、楽しみにしていた神田伯山の4日間完全通し公演が始まった。
初日、出来はイマイチだったような気が…
いや、私がこの日一日、マスク二枚重ねで歩き回って、酸欠で具合が悪くなり集中できなかっただけかも。
今日から再び期待しよう。
※2日目はよかった。
両刀を構えて冬の武蔵伝
初日、出来はイマイチだったような気が…
いや、私がこの日一日、マスク二枚重ねで歩き回って、酸欠で具合が悪くなり集中できなかっただけかも。
今日から再び期待しよう。
※2日目はよかった。
両刀を構えて冬の武蔵伝
俳句をやろうと思う ― 2022/01/22
5日前に安藤サクラと自分との共通点を書いたが、今日は父親の奥田瑛二の登場だ笑
奥田瑛二は俳句が唯一の趣味だという。
ヤフーの記事からちょっと長いが引用させてもらう。
艶俳句。これが本当に楽しい。年齢を重ねるにつれ、たくさんの思い出、経験が蓄積されますよね。恥もあれば、悔しさもあり、つらい別離もありましたけど、もう一度、戯れると、心のコアのところにしまい込んでいた思い、忘れていた場面、言葉がまざまざと思い出され、表情やにおいまでフラッシュバックする。
僕は元来、ひとりが好きで、群れるのが嫌い。それでワインバーのカウンターの片隅でたばこをくゆらせたりするんですけど、そこで品性ある獣となって時空を超え、想像と妄想の翼を広げていく。行くたびに何か紙と書くものを女将さんに出してもらっていたら、それらを置いておいてもらえるようになりました。
年をとれば、体力は衰えていきます。しごく自然なことですけど、僕はそれと反比例して、心の体力がついてきた。普通は体力と共に気力も落ちるのだそうで、「初めて聞きました」と医者は驚いていた。でも、本当なんです。
「鳴く鳥を抱いて殺すか人の妻」
そんな官能的な艶俳句を詠んでいるからかもしれない。女性には今も150%、ドキドキですよ。
もちろん、谷底に突き落とされるようなときもあります。コロナ禍でほとんどの仕事がキャンセルになり、時間が止まってしまったときは心が折れ、昼間から酒瓶に手が伸びた。とても悪い酔い方をして、しばらくしてドラマの話をいただいても、セリフが全く入らないのですから自我亡失、嫌悪に自己軽蔑。このままじゃいけない。また崖に手をかけ、登るつもりで奮闘しました。
人生、その繰り返し。ひとつ登頂できても、また別の山が見えれば、登るしかない。98歳と決めていた自分の寿命をコロナで3年延ばして、101歳としました。最期を迎えるとき、幸せだったら右手を上げる。そう家族に伝えているのですが、そのためにも、見果てぬ夢、ロマンを追い続けたい。男が、自分ひとりで完結させるべきものがダンディズム。女は宇宙だと思う。いつか生まれてきたところに帰りたい。だからこそ、女性への憧憬の念を強く、抱き続けるのでしょうね。
(以上)
コロナ禍で九州国立博物館のボランティアが延期延期でやることがないので、私も俳句をやることにした。奥田瑛二と同じく、女たちのことを書き残したい。
ちなみに1979年、奥田瑛二が映画「もう頬づえはつかない」に桃井かおりの相手役として出演したとき、当時私がアルバイトしていた雑誌『ぴあ』の編集部でロケがあった。縁があるのだ。
奥田瑛二は俳句が唯一の趣味だという。
ヤフーの記事からちょっと長いが引用させてもらう。
艶俳句。これが本当に楽しい。年齢を重ねるにつれ、たくさんの思い出、経験が蓄積されますよね。恥もあれば、悔しさもあり、つらい別離もありましたけど、もう一度、戯れると、心のコアのところにしまい込んでいた思い、忘れていた場面、言葉がまざまざと思い出され、表情やにおいまでフラッシュバックする。
僕は元来、ひとりが好きで、群れるのが嫌い。それでワインバーのカウンターの片隅でたばこをくゆらせたりするんですけど、そこで品性ある獣となって時空を超え、想像と妄想の翼を広げていく。行くたびに何か紙と書くものを女将さんに出してもらっていたら、それらを置いておいてもらえるようになりました。
年をとれば、体力は衰えていきます。しごく自然なことですけど、僕はそれと反比例して、心の体力がついてきた。普通は体力と共に気力も落ちるのだそうで、「初めて聞きました」と医者は驚いていた。でも、本当なんです。
「鳴く鳥を抱いて殺すか人の妻」
そんな官能的な艶俳句を詠んでいるからかもしれない。女性には今も150%、ドキドキですよ。
もちろん、谷底に突き落とされるようなときもあります。コロナ禍でほとんどの仕事がキャンセルになり、時間が止まってしまったときは心が折れ、昼間から酒瓶に手が伸びた。とても悪い酔い方をして、しばらくしてドラマの話をいただいても、セリフが全く入らないのですから自我亡失、嫌悪に自己軽蔑。このままじゃいけない。また崖に手をかけ、登るつもりで奮闘しました。
人生、その繰り返し。ひとつ登頂できても、また別の山が見えれば、登るしかない。98歳と決めていた自分の寿命をコロナで3年延ばして、101歳としました。最期を迎えるとき、幸せだったら右手を上げる。そう家族に伝えているのですが、そのためにも、見果てぬ夢、ロマンを追い続けたい。男が、自分ひとりで完結させるべきものがダンディズム。女は宇宙だと思う。いつか生まれてきたところに帰りたい。だからこそ、女性への憧憬の念を強く、抱き続けるのでしょうね。
(以上)
コロナ禍で九州国立博物館のボランティアが延期延期でやることがないので、私も俳句をやることにした。奥田瑛二と同じく、女たちのことを書き残したい。
ちなみに1979年、奥田瑛二が映画「もう頬づえはつかない」に桃井かおりの相手役として出演したとき、当時私がアルバイトしていた雑誌『ぴあ』の編集部でロケがあった。縁があるのだ。
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