枕崎空港問題の渦中に2017/08/24

「ほぜどん事件」以外にも、枕崎時代は嫌なことが多かった。
それはおいおい書いていくとして、まずは「市長が新聞社の人事に影響力を及ぼした大スキャンダル」について書かねばなるまい。

私が赴任した時、今急冷ヒロシ市長は2期目だった。

その前が田代清英さん(1978年~1990年)という名物市長だった。
アイデアマンで、枕崎空港や南溟館(なんめいかん)という美術館を造った。

枕崎は薩摩半島の南端で、北薩の溝辺にある鹿児島空港が遠い。ならいっそ飛行機で結べば、市民に便利だというのが枕崎空港の発想だ。
1991年(平成3年)1月、国内初の地域空港(コミューター空港)として開港した。

南溟館は昭和62年(1987)度、林野庁のモデル木造施設建設促進事業を使って、枕崎支局にほど近い片平山公園に建設した。
「風の芸術展」という全国公募美術展を開催してきた。
「カツオの町」に文化の風を吹かせたのである。

また、信念の人で、同和と戦った。
確か全国で初めて同和への補助金を打ち切ったか何か、牛の切断した頭を市長の机に置かれても屈しなかったという。

その田代氏が後継に指名したのが今別府だ。
これも一つのアイデアだったのだろう。
サンケイリビング新聞の編成局長だった。

枕崎は「毒の町」だったと表現したが、「コップの中の嵐」で政争の激しいところだ。
誹謗中傷の飛び交う地元から候補を選ぶのは至難で、むしろ長くよそで暮らした〝落下傘候補〟のほうがよかったのだろう。

東京の新聞社の〝編集長〟というので、中央とのパイプを期待されただろうし、今急冷という鹿児島では家柄を感じさせる名字(実際は別の名前)だ。もっとも、金山の鉱夫の家だという人もいる。薩摩藩が芹ヶ野金山から技術者や労働者を移住させて開発した鹿籠(かご)金山というのがあった。

今急冷の就任早々、前市長の手になる枕崎空港が開港するが、私が赴任した1994年当時、最大の政治問題になっていた。

ちなみに1991年 9月、前市長の田代氏は自宅で首つり自殺した。

本社に戻るか?2017/08/24

 支局2年目の年度末。
 鹿児島市の本社であった支局長会議の後、編集局長に呼び止められた。

 会議室に二人残り、怪訝な顔を浮かべる私に局長が聞いた。
「どうだ、支局は」

「ええ、だんだん慣れてきました」
 厭なことばかりあって塞いでいる、とは口が裂けても言いたくない。

 局長はうんうんと頷くと本題に入った。
「市長とはうまくいってるのか」

 今急冷ヒロシ。
 馬面の大男で、一見ぬぼーっとした印象だが、眼鏡の奥の目は冷たい。人を食ったところがある。
 東京で業界紙の編集長(実際は編成局長)をしていたというので、同業かと親しみを持っていたが、会ってすぐに取っつきにくさを感じた。

「うまくいってるも何も、是々非々ですよ。ただ、空港問題でがたがたですね。市議会では明けても暮れてもそればかりです。市長はいいかげん廃止で着地したいんでしょうが」

 局長は腕組みをしてじっと机の表面を見つめてから口を開いた。
「市長がうちの社長に申し入れてきたそうだ」
「何をですか」
「市長は鹿児島大学で社長の一つか二つ上の先輩でね、サークルも一緒だったらしい」
「それで」

「支局長を代えてくれと」
 目の前が暗くなるとはこのことか。
 またしても意味の分からない悪意によって、絶望に突き落とされた。

「どうする。本社に戻るか、支局長を続けるか。君次第だ」
 何なのだ、これは。局長は選ばせてやると親切に言っているつもりか。

「どういうことですか」
 いつもは淡々としている局長が困った顔をした。
「私もよく分からないんだ……。社長はそう伝えてくれというだけで」

 市長が新聞社の人事に口を出す?
 市長も憎いが、拾田社長はもっと憎い。
 自分の社の人間を守ることなく、はいはいと市長の言い分を聞いたということではないか。勝手な市長の言い草など撥ねつけてほしかった。

 頭が混乱する。
 これはおかしい。しかし、声を上げたら、自分は〈市長に嫌われた支局長〉の烙印を押される。恥と義憤を天秤にかける。

「市長に嫌われて支局生活を続けるのはつらいだろう」
 市長とは気が合うタイプではないが、そこまで嫌われているとは想像していなかった。反市長派の愚痴を聞いていたから? 選挙情勢に注視するのは支局の最重要な仕事の一つだ。

 答えは二択。
 退くか、残るか。どっちだ。
「少し考えさせてほしい」という選択肢はない。きっと社長と市長は手ぐすね引いて答えを待っている。

 焦った。人生の大事な選択なのに一刻の猶予もない。

 今急冷の顔はもう見たくない。
 しかし、しっぽを巻いて逃げ帰るのは屈辱だ。
 かと言って本社に戻って、社長の顔を見るのも苦痛だ。

 退くも地獄、残るも地獄。

 結論は出た。

「支局に残してください」

 局長は頷いた。
「それがいい。あと一年頑張れ。社長にはそう伝えておく」

スクープにも皮肉2017/08/24

 残留を決めた後の支局三年目。
 つらい状況には何も変わりなかった。

 北内もひどいが、社会部デスクの蟻川が最悪だった。

 私は特ダネを書くのが好きだ。よその新聞やテレビ局に出ていない情報をすっぱ抜く、その快感が記者の仕事をする原動力だったといっていい。
 ところが、社会部に出稿予定を連絡すると、蟻川は、よその新聞より早かろうがどうしようが、事情も知らないくせに読む前から「キミがふだん回っちょらんでよ」と必ず、訳のわからない嫌みを言うのだった。
私は反論しない。翌日の各紙を見て、うちの新聞だけに出ていることを思い知ればいい、と考える。
しかし、蟻川は嫌みを言い続けた。単に私が嫌いで、憎たらしいのだ。

 3年目には知覧中学校のいじめ自殺事件という大きな事件が起こった。
中学三年生が、自宅近くの公民館で、屋根に上がる鉄製梯子にロープをかけて首吊り自殺した。
 遺書に、いじめた生徒たちの名前を名指ししていたため、大変な騒ぎになった。警察も捜査に乗り出した。
 夜遅くまで取材に駆け回り、ようやく原稿をまとめたとき、ふと、遺書は何の筆記用具で書かれていたのか気になった。鉛筆か、ボールペンか。
 すると、紙も気になってくる。ノートの切れ端か、便箋か。
「遺書は鉛筆でノートに殴り書きしてあったという」――そういう一節を入れたかっただけだ。臨場感が増すと思った。
 急いで署の生活安全刑事課長に電話を入れる。
「うーん、それはどうかなあ……」
「え、どうしてですか。鉛筆か、ボールペンか。ノートの切れ端か、それだけですよ」
「私では判断しかねる」
「いいです、分かりましたっ! 署長に回してください」
「いいよ」課長はほっとした様子で署長官舎に電話を繋いだ。
 署の裏手にある一軒家には何度か行ったことがある。署長は単身赴任だった。買ったばかりの私用の液晶一体型パソコンが放ってあったので、初期設定してあげた。一緒に庭の畑を眺め、野菜の出来を褒めた。
 締め切りが迫っている。署長が電話に出ると、挨拶もそこそこに早口で用件を告げた。
「言えない」
 愕然とした。したくもない胡麻擂りまでして関係を築いてきたのに、こんな小さなことも教えてくれないのか。
「ちょっ、ちょっと、待ってください。じゃあ、鉛筆か、ボールペンか、だけでもいいです。捜査には関係ないでしょう。まさか悲嘆のどん底にある両親に尋ねるわけにもいかないから聞いてるんですよ。捜査上の秘密、『犯人にしか知りえない事実』ってわけじゃない」
「言えない」
「畜生」受話器を叩きつけた。
 原稿はそのまま社会部に送稿したが、デスクからその点について突っ込まれることはなかった。その後も誰も問題にしなかった。
 誰も気にしない、どうでもいいことなのだ。名指しの生徒たちが本当にいじめていたのか、その事実認定が本筋であって、遺書の筆記用具など枝葉末節ではないか。
 じゃあ、どうして署長は遺書が何で書かれたかを教えてくれなかったのか。
 その後の混乱で、署長には改めて質す機会を逸した。
 事件はどんどん嫌な方向に流れていった。
 両親ははじめ、いじめの兆候に気づいていたのに対策を取らなかった自分たちを責めていた。ところが、子供のいじめ自殺専門の支援団体がついてから、態度をがらりと変えた。学校といじめ生徒を激しく攻撃し始めた。警察も名指しされた生徒たちを一斉に事情聴取し、〝犯人捜し〟に乗り出さざるを得なくなった。田舎の町ではあっという間に生徒の名前は広まった。
 加害生徒の一人の父親が農薬を飲んだ。発見したのは当該の息子。父親は翌日病院で死亡した。ひと言も謝罪しない親たちもいる中、この父親は事件以降は仕事を休み、通夜も告別式も出席、その後もたびたび謝罪に訪れていた人だった。事件の拡大に、外国の有力な通信社も世界に配信した。
 知覧署は加害生徒たちを暴行容疑で書類送検した。両親は学校設置者の市と保護者を相手取って、高額の損害賠償請求訴訟を準備していると聞く。
 嫌な思いだけが残った事件だった。署長の真意も謎のまま残っている。

 知覧中いじめ自殺事件でもスクープを書いた。
 警察が加害生徒をいつ事情聴取するかが注目された時期だ。
 署長とは筆記具を巡るいざこざがあって、もう聞けない。生活安全刑事課は立ち入り禁止だ。朝から晩まで次長をマークした。ふだんは食えない男だが、大事件だ。いざとなれば熱意に応じるくらいの心意気はあるだろう。
 事件担当記者も一緒だった。
 次長が署を出て帰るとき、二人で両脇から挟みながら駐車場を追いかける。
「生徒を呼ぶのはいつですか」
 黙っている。表情は堅い。
「明日ですか」
 微妙に表情が動いた。
「明日の朝、ですね」
 目を合わさないが、微かに頷いたようにも見える。
「それで書きますよ」
 次長は黙したまま、早足で暗闇に消えていった。
「どう思う」事件記者に聞いた。
「イエスでしょう」
「よし、行こう」
 支局に戻り、「きょう聴取」の記事を書く。
 感触でしかない。そうだと返事したわけでもない。これも間違えれば馘首、命がけのスクープだ。ましてや、加害者と決まったわけでもない、前途ある中学生の記事に絶対に間違いは書けない。
「事件記者って、いつもこんな仕事してるのか、大変だな」
「時代は変わっても、警察はなかなか肝心なことは教えませんから。手持ちのネタをサツ官に当てるという作業はなくならないですね」
 まさに横山秀夫「クライマーズ・ハイ」の世界だ(当時まだ出ていない)。

 翌朝一番に新聞を開く。
「加害生徒きょう聴取」は社会面トップだ。
 しまった。せめて「今日にも聴取」と逃げを打っとくべきだった。興奮して大事を取るのを忘れていた。

 すぐに支度をして署に出かける。
 次長の顔を見て、肩の荷が下りた。
 昨夜と打って変わって穏やかな表情。「書きましたね」という顔をしている。
「予定通りですね。聴取は何時からですか」念のため尋ねる。
「もう始まりました。市内の公民館に分散して聴いてます。あ、でも、行っちゃだめですよ」
「分かってます。そこまで望んでません。何といっても相手は子供ですから」
 ほっとしながら言った。思い出しても背中がヒヤリとする。

 枕崎空港からの日本コンチネンタル空輸の撤退等々。
 スクープを連発しても社会部からの評価は上がるどころか、蟻川デスクは相変わらず「君がふだん回っちょらんでよ」。さすがに受話器を叩きつけた。

死のうかな……2017/08/24

 こんなこともあった。
 鹿児島新報加世田支局が、私の記事をそっくり丸写しにして平然と紙面に掲載するのだ。
 あ然としてこんなことはすぐにやめるだろうと静観していた。なにしろ丸写しだ。

仰天したが、抗議はしなかった。どうせ問題になる。
官公庁や警察署は南も新報も取っている。
地元の記事が載れば切り抜いて回覧までする。
一目瞭然なのだ。
早晩この記者は恥をかくだろうと思い、ほったらかして抗議もしなかった。

丸写しはずいぶん長く続いた。
ところが、どこからも声が上がらなかった。
新報は所詮それだけの新聞と思われていたのか。
紙面のクオリティーも紙質や印刷も含めて低く、記者の労働環境も、人不足による酷使、給料の遅配まであるらしい。

南日本の中途採用を受けて、新報から移ってきた記者が3人いたが、確かにはっきり記者としてのレベルは南日本より低かった。

私も抗議のきっかけを失い、あとはいつ終わるのか黙って見守るしかなくなった。初めの一、二本目できちんと抗議すべきだったのだ。
自分で新報の加世田支局に電話して嫌な思いをする必要もない、社から社へ正式に抗議してもらえばよかったのだ。

人間不信に陥っていたのだろう。

このころ、私は小説を書き始めていた。
1995年にはオール読物推理小説新人賞の一次予選にとおり、同誌に名前が掲載された。

また、文芸担当時代に可愛がってもらった相星雅子さんに誘われて、『小説春秋』の同人となり、九六年(平成八年)六月に初の作品を発表した。

冒頭、主人公は姉の首吊り自殺を想像するという死の予感に満ちた作品だ。

読売新聞の文化部記者から、西部版、文化面の文芸時評で取り上げるので、顔写真を送ってほしいと電話があった。
私はペンネームで発表しているので断った。

文芸時評は文化面の3分の1ほどを占める大きなもので、しかもほぼ私の作品だけに言及していた。
福岡の大学の先生(今となっては氏名も分からず)だったと思う。

ぼろくそにけなしてあった。
第一に、主人公の言動に共感が持てないと。
「こいつは馬鹿か」と思った。文学の教師でありながら、悪漢小説(ピカレスク・ロマン)という一大ジャンルを知らんのか。

第二に村上春樹の模倣であるという。私は村上の初期作品に衝撃を受けたのは確かだが、この頃はむしろ嫌いになっていた。
どこが模倣なのか(例えば文体とか)は具体的な指摘はない。タイトルをピンク・フロイドの曲名から取ったと注意書きしていたので、おそらく『ノルウェイの森』(一九八七年)がビートルズ由来だったことの連想程度であろう。

こんな内容であの文化部記者もよく平気で「顔写真を送れ」などと――。同業者の底意地の悪さを見る思いだった。
「悪評もまた評なり」と泰然と受け止めることは出来なかった。
気の小さい私はそれから十年、全く小説が書けなくなった。

 もろもろ、こういう嫌なことが続いた。
 スクープをいくら書いても皮肉か嫌味を言われる。
 管内の祭りを勝手に一面カラーにされた「ほぜどん」事件。
 そして市長が新聞社人事に口を出す。
 一時的にかっと燃えた反発心もやがて収まり、ただ抜け殻のようになって、死のうかな……という臨界点まで塞ぎ込んでいだ。

「死のうかな……」
 支局の窓から港を眺めながらそう呟く日々だった。

 支局は少し高台にあって、南側に開けた海が見える。
 沖には、とんでもない巨人がヒッチハイクをしようとして立てた親指のように、大きな岩が海から突き出て聳えている。
 自分はこの〝立神〟と呼ばれる巨岩をこの世の、この町の名残として胸に刻もう。
「立神……。Standing Godか……」
 自分の中の生きようというエネルギーが急速に失われ、すっかり枯渇してしまっていることをはっきり意識した。
人は生きたい気持ちがなくなったときに死ぬのだろう。もう、どうでもいい、という気持ちだった。
すっかり滅入ってしまった。この気持ちは妻にも誰にも話せるものではなかった。ただ抜け殻のようになってしまった自分を意識するばかりだった。

南日本新聞の〝9・11〟2017/08/24

 実はこのころ、南日本新聞社はおかしなことになっていた。

 一九九二(平成四)年九月十一日。
 すべては唐突な発表から始まった。

 目高社長(当時)が新社屋建設のための用地取得交渉に入っていると発表した。

 発行部数や頁数、カラー紙面の増加に対応できる最新鋭の輪転機が物理的な問題で搬入・設置できないため、新社屋あるいは新工場を建設する必要があるという方針は前々から出ていた。ただし社員は皆、現有地での拡充、建て替えを想像していた。城山の麓ともいえる好位置にあり、市役所や繁華街天文館に近くて市内交通の起点になっており、移転する選択肢は頭になかった。

 ところが、社長が発表したのは、人気がなくてどこもかしこも売れ残っている埋立地、与次郎ケ浜だった。

 私はすぐに「それはダメだ!」と仰天した。

 昭和六十年八月末に鹿児島市を襲った台風13号。当時鹿児島市政担当だった私は市内の混乱の一コマを拾っている。

 タイトルは「風雨とともに亀来訪」「思わぬ置き土産」。
「台風の高波にのって〝海の使者〟が訪れた。与次郎ケ浜一帯には、タイやタコからカメまで打ち上げられ、思わぬ台風の置き土産に、後始末に追われる人たちもひとときほほえんだ。
 与次郎一丁目の家具店従業員が店の内外の掃除や浸水のくみ出しをしていると、駐車場にできた水たまりに、三十㌢余りの魚が五、六匹スイスイ泳いでおりビックリ。さらに大きなタコまで出てきて『これはすごい』と掃除を続けていると、『まだ何か大きいのがいるぞ』との騒ぎに駆けつければ浦島太郎に出てきそうなウミガメだった。
 また与次郎二丁目の道路上にはレンコダイがピチピチ跳ね、近くで片づけをしていた人たちがそそくさと持ち帰った」(昭60・9・1付南日本新聞)
 ウミガメとタコの写真が付いている。
 鹿児島は台風常襲地帯。正気の沙汰ではない。

 しかし、会社の動きは早かった。
 発表の直後の十月一日には新社屋建設の方針を打ち出した冊子を全社員に配布。

 莫大な投資をしてわざわざ不便なところに移るという。もちろん組合は反発したが、社長は「これは経営権の問題であって、労使協議事項ではない」と突っぱねた。
 突っぱねたのも道理で、用地取得交渉中どころか社長はもう勝手に契約書を交わしていた。

 年の明けた一月八日には与次郎一丁目の土地を取得し、所有権移転登記を完了した。
 これでどうやって反対できるのだろう。

 二千坪で三十一億三千七百八十一万円。
 坪当たり156万8905円という破格の値段だった。

 購入相手は第五富士というパチンコ業者。

 溝口敦『パチンコ「30兆円の闇」』(小学館文庫)によると、九二年はパチンコ業界にとって大きな転換点となっている。警察が暴力団に代わって業界を取り込んだというのだ。
 同年三月、暴力団対策法施行。八月には初のCR(カードリーダー)機導入。この二つは、警察による暴力団からのシマ捕り、利権確保の二正面作戦だったという。「暴力団の代わりに誰が業界に入ってきたのかといえば、警察OBですよ。警察がギャンブル性アップを認めてパチンコからヤクザを追っ払い、自分の縄張りに取り込んだ。そのあげくが〝パチンコ狂い〟の続発」と警察官出身者が憤慨する。
 さらに詳しく見れば、パチンコ店の営業許可はもちろん、店のパチンコ機に違法がないかどうかは所轄署の生活安全課が見る。売り出す前のパチンコ機やパチスロ機は警察庁の外郭団体が試験、検査する。あげくOBはパチンコ業界に再就職する――という仕組みらしい。

 県警本部移転→新聞社移転→パチンコ業者の土地を購入。
 警察がパチンコ業界を掌握した年に、県警本部の移転先にほど近いパチンコ業者の土地を買ったからといって、もちろん何の関係もあるまい。
 ただ、パチンコ業者が持て余していた人気のない土地を新聞社が買ってあげた形に見えるのは確かだ。大義名分である県庁・県警本部の移転先にも実際には大して近くない。三十数億円。業者にとってみれば、バンバンザイだろう。バブル経済崩壊直後である。
(そこに警察の口利きはなかったのか。)

 ところで、パチンコ業界といえば、北朝鮮への送金問題がある。
 前掲書によれば、「合法、非合法のカネを含め、在日同胞が北朝鮮に送金した額は90年前後が最高で、年間4億㌦と推計してます。当時、日本円にして約600億円」(韓国在日機関の情報筋)だったらしい。

 17日の記事「反日地方紙の正体」に書いたように、
 一九九一年八月にKが書いた連載「終わりなき旅路――鹿児島の朝鮮人強制連行」。Kとは北内だ。社会部記者の肩書で書いているが、ヒラ記者ではない。デスクだったはずだ。
 デスクは記者に書かせるのが仕事で、自ら書くものではない。
 それをあえて破ってまで書かねばならなかったのか。

 南日本新聞はこの時点で完全に〝赤化〟している。

 1992年は宮沢喜一首相による韓国への謝罪外交だ。

 まさか、韓国・朝鮮への〝謝罪〟のために、南日本新聞社がパチンコ業者の土地を買ってあげたと言うつもりはない。
 単なる妄想である。

ある支局長の死2017/08/24

H7・12・7、定時株主総会で、与次郎ケ浜を購入した目高が退任し、拾田が社長となった。

年が明けてすぐ、H8・1・10に社説盗用事件が起こった。

二十年前のことであり定かではないが、いくつか疑問がある。

①通常、おわびや訂正は体裁のいいものではないので、こっそりと目立たぬように出すものだが、1・10付に「おわび」、続けて1・18付に「社説の朝日新聞記事使用についての経緯とおわび」と念を入れた。1・10には社報号外「急告」まで発行し、社員に〝綱紀粛正〟を呼びかけたが、当該論説委員の胸中はいかに。

②該当する社説は前年九月二十日付。ちょっと間が空いていないか。
朝日新聞から抗議があったとは聞いていない。会社内部での指摘だったと思う。確か社長自ら朝日新聞に赴いて謝罪したはずである。朝日側は面食らったかもしれない。
もちろんあってはならないことだが、この人にだけえらく厳しかった記憶がある。他の不祥事に比べて処分の重さが際立つ。長期にわたる無免許運転や住居侵入、はたまた傷害事件でもこれといった処分を受けない人もいる。
論説委員はたまらず退職に追い込まれたが、依願退職だったのか懲戒解雇だったのかは記憶にない。

 そして、このあとの二月、枕崎市長が枕崎支局長である私の更迭を拾田社長に懇願し、拾田はなんとそれを聞き入れて私の意向を編集局長に確認させるという〝大スキャンダル〟が起こる。これは関係者以外誰も知らない秘話である。

 拾田と私はほとんど接点はない。
 拾田が新取締役として労働組合担当(労担)になったとき、私もたまたま組合の執行委員(編集分会長)だった。
 団交の席上、三役や印刷・制作現場の執行委員に対しては懸命に防戦一方だった。

ところが、私が何か意見を言うと、拾田は一転、目の色を変えて「君はね、そんなことを言うけどね、」と高圧的に威嚇し反論した。
自分が編集出身だから、編集の人間が何を言うか、という気持ちが強かったのかもしれないが、私は別に自分個人の意見を言っているのではない。
編集分会を開いて出た意見を集約し、嫌でもそれは会社側に伝えないといけないから仕方なく義務として発言しているだけなのだ。
拾田は専従の書記長までやったことがあるのに、分からない筈はなかった。
 そのときから私に対して「いけ好かない奴だ」と思っていたのかもしれない。

 この年、拾田は本社の与次郎移転と国分印刷工場建設へと突き進む。
 築地と豊洲ではないが、いったい誰のために移転するのか。日本最大の市場でも必然性が分からない。移転は利権だ。新しく造るものがなければ、今あるものを移す。誰かが儲けようとしているのだ。

 私は枕崎残留を選択したものの、次第に人間不信と絶望感に駆られ、ぼんやりと死を望むようになる。塞ぎ込んで家族とも口を利けなくなっていると、何を勘違いされたのか離婚を切り出される始末。
 やっと枕崎の三年間が終わろうというとき、私のそんな漠然とした死の願望を吹き飛ばすような大事件が起こる。

 平成九年(一九九七)三月の終わり、四月からの業務を前に志布志支局に赴任したばかりのKが行方不明になったのだ。

実は社会部の事件記者や支社支局の記者の行方不明は時々ある。
私の同期も、30になってから、総務から希望して編集に来たのはいいが、いきなり事件記者をやらされ、会社に出てこれなくなった。
優しい男だった。
退職して歯学部に入り直し、今では指宿で歯医者をやっている。

さて、志布志支局長は当時、隣接する宮崎県串間市に九電が原発を造るのではないか、という話があり、その取材を苦にしていたと噂された。

いつも静かに微笑んでいるような優しい男だったが、組合の執行委員長もやっていたので失踪は意外だった。

悩んでいる人間に対して、汚元や蟻川が「お前、しっかり取材せーよ」とプレッシャーをかけたに違いない。あの二人がひと言言わないはずがないのだ。

なかなか見つからないため、山狩りが何度も行われた。

自殺だった。
木に架けたカメラのストラップで首を吊っていたという。
仕事道具だ。十分なダイイング・メッセージだろう。
会社への抗議でなければなんだ。

私が枕崎に来た時と同じ、三十六歳の若さだった。

つまり、わずか一年三カ月の間に、①社説盗用による論説委員退職②社長と市長による枕崎支局長更迭未遂③志布志支局長自殺――という三つの事件が起こったのである(②は誰も知らないが)。これは偶然だろうか、それとも何か共通する背景があるのか。

 共通する何かがあるとすれば――記者生命を絶つということである。
 私も一歩間違えば、K君になるところだった。