ある支局長の死 ― 2017/08/24
H7・12・7、定時株主総会で、与次郎ケ浜を購入した目高が退任し、拾田が社長となった。
年が明けてすぐ、H8・1・10に社説盗用事件が起こった。
二十年前のことであり定かではないが、いくつか疑問がある。
①通常、おわびや訂正は体裁のいいものではないので、こっそりと目立たぬように出すものだが、1・10付に「おわび」、続けて1・18付に「社説の朝日新聞記事使用についての経緯とおわび」と念を入れた。1・10には社報号外「急告」まで発行し、社員に〝綱紀粛正〟を呼びかけたが、当該論説委員の胸中はいかに。
②該当する社説は前年九月二十日付。ちょっと間が空いていないか。
朝日新聞から抗議があったとは聞いていない。会社内部での指摘だったと思う。確か社長自ら朝日新聞に赴いて謝罪したはずである。朝日側は面食らったかもしれない。
もちろんあってはならないことだが、この人にだけえらく厳しかった記憶がある。他の不祥事に比べて処分の重さが際立つ。長期にわたる無免許運転や住居侵入、はたまた傷害事件でもこれといった処分を受けない人もいる。
論説委員はたまらず退職に追い込まれたが、依願退職だったのか懲戒解雇だったのかは記憶にない。
そして、このあとの二月、枕崎市長が枕崎支局長である私の更迭を拾田社長に懇願し、拾田はなんとそれを聞き入れて私の意向を編集局長に確認させるという〝大スキャンダル〟が起こる。これは関係者以外誰も知らない秘話である。
拾田と私はほとんど接点はない。
拾田が新取締役として労働組合担当(労担)になったとき、私もたまたま組合の執行委員(編集分会長)だった。
団交の席上、三役や印刷・制作現場の執行委員に対しては懸命に防戦一方だった。
ところが、私が何か意見を言うと、拾田は一転、目の色を変えて「君はね、そんなことを言うけどね、」と高圧的に威嚇し反論した。
自分が編集出身だから、編集の人間が何を言うか、という気持ちが強かったのかもしれないが、私は別に自分個人の意見を言っているのではない。
編集分会を開いて出た意見を集約し、嫌でもそれは会社側に伝えないといけないから仕方なく義務として発言しているだけなのだ。
拾田は専従の書記長までやったことがあるのに、分からない筈はなかった。
そのときから私に対して「いけ好かない奴だ」と思っていたのかもしれない。
この年、拾田は本社の与次郎移転と国分印刷工場建設へと突き進む。
築地と豊洲ではないが、いったい誰のために移転するのか。日本最大の市場でも必然性が分からない。移転は利権だ。新しく造るものがなければ、今あるものを移す。誰かが儲けようとしているのだ。
私は枕崎残留を選択したものの、次第に人間不信と絶望感に駆られ、ぼんやりと死を望むようになる。塞ぎ込んで家族とも口を利けなくなっていると、何を勘違いされたのか離婚を切り出される始末。
やっと枕崎の三年間が終わろうというとき、私のそんな漠然とした死の願望を吹き飛ばすような大事件が起こる。
平成九年(一九九七)三月の終わり、四月からの業務を前に志布志支局に赴任したばかりのKが行方不明になったのだ。
実は社会部の事件記者や支社支局の記者の行方不明は時々ある。
私の同期も、30になってから、総務から希望して編集に来たのはいいが、いきなり事件記者をやらされ、会社に出てこれなくなった。
優しい男だった。
退職して歯学部に入り直し、今では指宿で歯医者をやっている。
さて、志布志支局長は当時、隣接する宮崎県串間市に九電が原発を造るのではないか、という話があり、その取材を苦にしていたと噂された。
いつも静かに微笑んでいるような優しい男だったが、組合の執行委員長もやっていたので失踪は意外だった。
悩んでいる人間に対して、汚元や蟻川が「お前、しっかり取材せーよ」とプレッシャーをかけたに違いない。あの二人がひと言言わないはずがないのだ。
なかなか見つからないため、山狩りが何度も行われた。
自殺だった。
木に架けたカメラのストラップで首を吊っていたという。
仕事道具だ。十分なダイイング・メッセージだろう。
会社への抗議でなければなんだ。
私が枕崎に来た時と同じ、三十六歳の若さだった。
つまり、わずか一年三カ月の間に、①社説盗用による論説委員退職②社長と市長による枕崎支局長更迭未遂③志布志支局長自殺――という三つの事件が起こったのである(②は誰も知らないが)。これは偶然だろうか、それとも何か共通する背景があるのか。
共通する何かがあるとすれば――記者生命を絶つということである。
私も一歩間違えば、K君になるところだった。
年が明けてすぐ、H8・1・10に社説盗用事件が起こった。
二十年前のことであり定かではないが、いくつか疑問がある。
①通常、おわびや訂正は体裁のいいものではないので、こっそりと目立たぬように出すものだが、1・10付に「おわび」、続けて1・18付に「社説の朝日新聞記事使用についての経緯とおわび」と念を入れた。1・10には社報号外「急告」まで発行し、社員に〝綱紀粛正〟を呼びかけたが、当該論説委員の胸中はいかに。
②該当する社説は前年九月二十日付。ちょっと間が空いていないか。
朝日新聞から抗議があったとは聞いていない。会社内部での指摘だったと思う。確か社長自ら朝日新聞に赴いて謝罪したはずである。朝日側は面食らったかもしれない。
もちろんあってはならないことだが、この人にだけえらく厳しかった記憶がある。他の不祥事に比べて処分の重さが際立つ。長期にわたる無免許運転や住居侵入、はたまた傷害事件でもこれといった処分を受けない人もいる。
論説委員はたまらず退職に追い込まれたが、依願退職だったのか懲戒解雇だったのかは記憶にない。
そして、このあとの二月、枕崎市長が枕崎支局長である私の更迭を拾田社長に懇願し、拾田はなんとそれを聞き入れて私の意向を編集局長に確認させるという〝大スキャンダル〟が起こる。これは関係者以外誰も知らない秘話である。
拾田と私はほとんど接点はない。
拾田が新取締役として労働組合担当(労担)になったとき、私もたまたま組合の執行委員(編集分会長)だった。
団交の席上、三役や印刷・制作現場の執行委員に対しては懸命に防戦一方だった。
ところが、私が何か意見を言うと、拾田は一転、目の色を変えて「君はね、そんなことを言うけどね、」と高圧的に威嚇し反論した。
自分が編集出身だから、編集の人間が何を言うか、という気持ちが強かったのかもしれないが、私は別に自分個人の意見を言っているのではない。
編集分会を開いて出た意見を集約し、嫌でもそれは会社側に伝えないといけないから仕方なく義務として発言しているだけなのだ。
拾田は専従の書記長までやったことがあるのに、分からない筈はなかった。
そのときから私に対して「いけ好かない奴だ」と思っていたのかもしれない。
この年、拾田は本社の与次郎移転と国分印刷工場建設へと突き進む。
築地と豊洲ではないが、いったい誰のために移転するのか。日本最大の市場でも必然性が分からない。移転は利権だ。新しく造るものがなければ、今あるものを移す。誰かが儲けようとしているのだ。
私は枕崎残留を選択したものの、次第に人間不信と絶望感に駆られ、ぼんやりと死を望むようになる。塞ぎ込んで家族とも口を利けなくなっていると、何を勘違いされたのか離婚を切り出される始末。
やっと枕崎の三年間が終わろうというとき、私のそんな漠然とした死の願望を吹き飛ばすような大事件が起こる。
平成九年(一九九七)三月の終わり、四月からの業務を前に志布志支局に赴任したばかりのKが行方不明になったのだ。
実は社会部の事件記者や支社支局の記者の行方不明は時々ある。
私の同期も、30になってから、総務から希望して編集に来たのはいいが、いきなり事件記者をやらされ、会社に出てこれなくなった。
優しい男だった。
退職して歯学部に入り直し、今では指宿で歯医者をやっている。
さて、志布志支局長は当時、隣接する宮崎県串間市に九電が原発を造るのではないか、という話があり、その取材を苦にしていたと噂された。
いつも静かに微笑んでいるような優しい男だったが、組合の執行委員長もやっていたので失踪は意外だった。
悩んでいる人間に対して、汚元や蟻川が「お前、しっかり取材せーよ」とプレッシャーをかけたに違いない。あの二人がひと言言わないはずがないのだ。
なかなか見つからないため、山狩りが何度も行われた。
自殺だった。
木に架けたカメラのストラップで首を吊っていたという。
仕事道具だ。十分なダイイング・メッセージだろう。
会社への抗議でなければなんだ。
私が枕崎に来た時と同じ、三十六歳の若さだった。
つまり、わずか一年三カ月の間に、①社説盗用による論説委員退職②社長と市長による枕崎支局長更迭未遂③志布志支局長自殺――という三つの事件が起こったのである(②は誰も知らないが)。これは偶然だろうか、それとも何か共通する背景があるのか。
共通する何かがあるとすれば――記者生命を絶つということである。
私も一歩間違えば、K君になるところだった。
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