研究発表しました2024/04/28

終わって2か月もたってから、こんなポストを見つけた(笑)。
私も発表者の一人です。

荒涼たる九大箱崎キャンパス2023/12/13

九州大学の箱崎キャンパスに初めて行ってみた。

九大といえば、高校時代、先生から「受けろー、受けろー」とうるさく言われたものだが、それへの反発もあって、全く眼中になかった。
鶴丸高校としては、全国の高校相手には東大合格者数や国立大医学部合格者数が重要だったが、九州内や同じ鹿児島市内の高校に対しては九大合格者数でも負けてはならなかったのである。
なにしろ百人は送り込まないと勝てないのだ。

しかし、そんなのは先生や学校の勝手である。
生徒にとっては勝手に人生の進路を決められるという、全くもって迷惑な話だ。
進路指導なんてものはなかったに等しい。
とにかく勉強のできる者から順に、東大、国立大医学部を強制的に勧められ、そこに達しないグループには九大を受けさせる。そこにも届かない者は関心の外だ。

3年の時の担任の東憲治先生に、京都大学を受けると言っても許してもらえず、じゃあ一橋!いやダメってわけで、願書提出期限までなかなか決まらなかった。
とうとう私も訳が分からなくなって、やけのやんぱちで名古屋大学にすると言った。
名大も一流大学ではあるが、鶴丸から受ける者などいない。
どうしても九大がイヤだったのだ。それだけだった。

ところが、東先生もこんにゃろー勝手にしろと思ったのか、なんと許しが出た。

この先生には遺恨があった。
夏頃だったか、夜中、近くの同級生の家に4人ほど集まって、ウイスキーをかっくらった。
飲み方を知らないから、コップにそのまま注いで生(き)で一気飲みだ。
翌日、3人は何食わぬ顔で登校したが、1人が二日酔いで欠席した。
しかもあろうことか、そいつは一緒に飲んだメンバーをばらした。
私は階段の踊り場で東にビンタを食らった。

まあ、これは自分らが悪いから仕方がないが、もう一つは許せない。

帰りのバスで居眠りして、開いていた窓から帽子を落としてしまった。
慌てて次のバス停で降りて探したが、見つからなかった。
翌朝、帽子なしで登校すると、服装に目を光らせていた東はすぐ「帽子はどうした」と聞いた。
「なくしました」
「新しいのを買いなさい」
(え⁉)
もう3年生の3学期である。入試等もあって、学校に行くのはわずかだ。
それなのに新品を買えと言う。母にお金をもらうのも申し訳ない。
こういうとき私は悲しいかな、うまくアドリブで口ごたえができない。
結局、新しい帽子を買い、わずか数回だけ学校にかぶっていった。

帽子を落とした私は、名大も落ちた。
入試は見たこともない問題ばかりだった。
入試問題にここまで地域性があるとは想像もしていなかった。
だから鶴丸では九大の過去問ばかりやらされたのだ。
あるいは東京の大学を受ける者が多いので、そういう傾向と対策も。
だから早稲田の試験では、見たこともない問題が並ぶようなことはなかった。
東先生も私が痛い目に遭うことは分かっていただろう。

今でも思う。
希望は通らず、受けたくもない名大を受ける必要があったのか(しかも落ちた)。
先生にそんな権利があるのか。

東先生はその後、鶴丸の校長になった。まあ順当な出世かもしれないが、本人は教育長を狙っていたと私はにらんでいる…。

まあ、それやこれやの九大である。


目的は九州大学総合研究博物館である。
九大の本体は糸島に移転したと仄聞していたものの、跡地の箱崎キャンパスがこんなに荒涼としているとは驚いた。
旧工学部本館がぽつんと残されて博物館になっているのだ。
中に入ってみる。


ほかに見学者もなく、しんとした中にアンモナイトの化石から始まって、いろんな遺物が無造作に置いてある。
さすが、箱崎にあった110年の歴史が迫ってきて迫力がある。
夢野久作のドグラ・マグラの世界だ。
1、2、3階とたっぷりたんのうした。
もっとも人骨の部屋とかは恐ろしくてドアを開ける勇気はなかったが。

九大総合研究博物館は令和9(2027)年度にリニューアルオープンするそうだ。
このおびただしいお宝を死蔵させておく手はない。
私も微力ながら関わりたいと思っている。

あんなに逃げ回っていた九大と、50年近く後に縁ができそうだ。
それもまた人生だろう。

原田大六が面白い2023/06/07

在野の考古学者、原田大六(1917-1985)が面白い。

福岡県糸島市を拠点に活躍。平原遺跡の発掘調査で有名なことは伊都国歴史博物館を訪ねて知ってはいたが、その時点ではあまり興味を持たなかった。

装飾古墳に関する良い文献を探すうちに、国会図書館デジタルコレクションで原田大六『磐井の叛乱』(1963)を知り、読んで驚いた。

五郎山古墳の壁画に描かれている家屋が筑紫神社だというのだ。

これをきっかけに、五郎山古墳の被葬者が分かった(4/30参照)。
この詳細はしかるべき形で発表したいと考えている。

古書で『新稿 磐井の叛乱』(1973)を購入して読んだが、やはりすごかった。私の興味あるところが全て網羅されている。

以来、嵌まってしまってデジコレでちょこちょこ読んでいるが、目から鱗のことが多い。例を挙げよう。

日本書紀や七支刀銘文、広開土王碑文によって明らかなように、日本は4世紀半ばから朝鮮半島南部(いわゆる任那=加耶)を勢力下に置き、百済や新羅を服属させている。

とにかく日本は戦の強い国だった。
百済や新羅が困ったときには軍隊を派遣してやって、そのお礼にいろんな文物を献上されるという関係だったのである。
日本の輸出品は軍事力、輸入品は技術工芸だったともいえる。

しかし、6世紀になると、朝鮮半島が乱れてくる。
562年には新羅が任那日本府を滅ぼす。

原田大六は「任那に山城を築いて防戦したということも無かったらしい。日本軍は攻撃法は知っていたが退却して防戦する方法を知らなかったのであろう」と指摘する(『考古学研究』(1959.12)掲載の「神籠石の諸問題」)。

日本本土にも防衛施設はなかった。
「古墳文化前期から中期まで、いや後期にさえも、神籠石が姿を見せる以前には、日本には大軍を迎え撃つに足る城塞らしきものは全く見受けない」

こうして6世紀末から九州各地に神籠石が築かれるが、今度は完全防備に徹してしまって攻撃には適さないものを造ってしまった。原田大六は「愚城」とこき下ろしている。

これで分かった。
日本は663年に白村江の戦いで負けてから慌てて、水城、大野城、基い城を築くのだが、そのとき国を失って日本に来ている百済人を遣わして築かせたと書記に書いてある。
日本には巨大古墳を造る土木技術が既にあったのに、百済人に教わる必要があったのかと疑っていたが、日本人は実戦向きの城を築いたことがなかったのだ。

このほか、原田大六『卑弥呼の墓』(1977)には、強烈な松本清張批判が書かれている。
私も松本清張の古代史本はよく読んでいるので、時間の無駄だったかと腹立たしい思いがする。古代史好きには注意を促したい。

素人学者になりたい2023/01/14

森浩一さんは「考古学は町人の学問である」という。

町人学者の定義は「自分の意志と甲斐性で研究をする人」だそうだ。

「町人」というと、大阪の商人みたいな先入観が邪魔するので、「素人」と言い換えてもいいかもしれない。
「市民」でもいいのだが、この言葉も今では色が付いている。

ともあれ、森さんが町人学者の代表に挙げるのが、「伊都の三王墓」研究の先駆者である、江戸時代の青柳種信と昭和の原田大六の二人である。


福岡には他にも大きな成果を挙げた町人学者(素人学者)がいる。

1999年に古代の山城「阿志岐山城(あしきさんじょう)」を発見した中島聡さんである。

写真の「鉾之記」は、つい先日、筑紫野市歴史博物館で見かけたもの。
説明を撮影するのを忘れてしまったが、やはり青柳種信のように発掘された遺物を描写した江戸時代の記録だ。

縄文土器の文様解読①2022/11/20

装飾古墳の文様解読に当たって、先行する研究はないか調べていたら、縄文土器の文様解読の論文を見つけた。

縄文土器、銅鐸、装飾古墳、この三つの文様に興味がある。

縄文時代、弥生時代、古墳時代という日本の「無文字時代」にあって、実はこれらの文様が文字の役割をしていたのではないかと考えるからだ。

書いたのは東京の清瀬市郷土博物館の学芸員、内田祐治さんだ。
論文のタイトルは「中期縄文土器の文様構造─清瀬市域出土土器の文様解読─」。

ネットでPDFが公開されている。
45ページの力作だ。

難解な所もあるが、これだけ正面から縄文土器の文様解読に挑んだものは読んだことがなかったので実に面白く読んだ。
何より34もの土器の文様を具体的かつ詳細に分析しているのが素晴らしい。

二つだけ挙げる。

普通、絵は写実に始まり、抽象に向かうと考えられるが、縄文土器はそうではない。
「野生の思考(注=縄文人の思考)のなかには、具象から抽象化が起こされているのではなく、いわば関心のおもむくままの断片を集めたような抽象描写から、それらの概念を求める葛藤をへて、はじめて全体をとらえる具象描写できる感覚が呼び起こされてくる」

もう一つ、縄文土器の文様は四つの区画に分かれ、起承転結になっているとの指摘には感心した。

頭の中が古代、古代…2022/10/31

頭の中が「古代、古代…」となっている。

幸い、来年4月から「大宰府アカデミー」が40年ぶりに開講。
2年間、毎月1回受講し、さらに1年間の養成講座をへて史跡の解説員を認定するという長~いものだ。
修了時には68歳になっているが、まあよい、いずれ最後の仕事だ。

また、九州歴史資料館(わが家から歩いて5分)が、これまで蓄積してきた調査研究の成果を生かして、新たな古代史研究事業に取り組むという。
11月23日のフォーラム「古墳が語る日本創成の風景」が皮切りになるようだ。これも大いに期待している。

日本古代史の問題点2022/10/06

日本の古代史の最大の問題点は、昭和史と全く同じで、自虐史観からなかなか抜け切れないところにある。

超一流の論者は30年も前から指摘しているが、末端の研究員・学芸員は一向に変わろうとしない。

梅原猛は『日本の深層』(最初の刊行は1983年、文庫化は1994年)で、日本で見つかった世界最古の土器について、「この土器の年代のあまりの古さに、多くの日本の考古学者は、その科学的な鑑定の結果を疑った。なぜならば、日本の多くの学者にとって日本の文化は、どこか海の外からきた文化でなくてはならなかった」と書いた。

土器ばかりではない。鏡もそうだ。

森浩一は『日本神話の考古学』(1993年)で、「考古学では、とくに銅鏡の研究者の間の根強い価値観として、舶載鏡、つまり外国製品のほうに圧倒的な価値を与えがちであるけれども、八咫鏡は舶載鏡の可能性はまったくなく、倭人社会での製品、それも北部九州の製品の可能性がきわめて高い」と書いている。

私の9/30の記事「ヒスイの加工」も読んでもらいたい。