またまた羽白熊鷲的な ― 2024/02/13
橿原考古学研究所附属博物館(奈良県橿原市畝傍町)に、鳥の扮装をした司祭(?)のジオラマがあるようだ。
これもマークしておいて機会があれば行かねば。
http://marikofun.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-611e.html
これもマークしておいて機会があれば行かねば。
http://marikofun.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-611e.html
さらば羽白熊鷲 ― 2023/12/08
このブログでは、神功皇后に殺された羽白熊鷲について何度も書いてきた。
日本書紀には、羽白熊鷲は翼があって高く飛ぶことができたと書いてある。
そんなバカな、というなかれ。
千年後のメキシコにも「鷲の戦士」がいたのである。
九州国立博物館で開催中の古代メキシコ展でお目にかかれる。
名残惜しいが、あさって10日までだ。
私は、羽白熊鷲もこのような格好をしていたのだろうと考えている。
根拠のないことではない。
弥生中期、奈良県橿原市坪井遺跡出土の土器片である。
(森浩一編『日本の古代1 倭人の登場』巻頭カラーの一枚)
(森浩一編『日本の古代1 倭人の登場』巻頭カラーの一枚)
また、岡山県新庄尾上の弥生土器には「鳥の顔の人」が描かれている。
国立歴史民俗博物館編『銅鐸の絵を読み解く』より
さて、おととい書いたように、神功皇后は現在の筑前町夜須(安)で羽白熊鷲を討つと、次に山門県の土蜘蛛、田油津媛(たぶらつひめ)を滅ぼすため、津古から舟に乗って得川(宝満川)を下り、いったん上岩田(神磐戸)に上陸した。
津古の「津」は川の港、渡し場であったと考えられる。
宝満川と宝珠川の合流地点に行ってみた。
左から右へ流れている宝満川に、手前の宝珠川が流れ込んでいる。
なるほど、いずれも川幅も水量も申し分ない。古代には船の行き来が盛んだったことだろう。
宝珠川を遡ればちょうど五郎山古墳のあたりに辿り着く。
五郎山古墳の壁画には船が6艘も描かれている。むべなるかな。
管玉にどうやって穴を開けたのか ― 2023/11/04
卑弥呼の墓はどこか ― 2023/11/02
10月29日、福岡県糸島市の伊都文化会館であったシンポジウム「卑弥呼のクニを探る」に電車で行ってきた。
副題が「検証 邪馬台国畿内説と伊都国」で糸島市と奈良県桜井市・田原本町の三市町共催の取り組みで、先日奈良の飛鳥に行ったこともあり、これは行かねばと腰を上げたのだった。
基調報告を聞いていると、邪馬台国の候補地を考えるにあたって、桜井市の纏向遺跡は具体的な遺構や遺物で論議ができるが、九州説の場合、それがない(少ない)という指摘があり、確かにそうだと思った。
九州説、危うし!
シンポジウムで桜井市立埋文センター所長の橋本輝彦氏は、ずばり面白いことを言った。
「纏向遺跡の担当者は誰も箸墓古墳が卑弥呼の墓だとは思っていない。どうも箸墓の年代は260年以降である。年代的には(同じ纏向遺跡の)勝山古墳が卑弥呼の墓に合う」
さらに台与の墓についても言及があったが、残念ながら「ヒラ何とか」としか聞こえず、地図で見ると「ひ」で始まるのは東田大塚古墳か。
2つの古墳は前方部が長いという共通した特徴があることから、卑弥呼と台与の2人の墓だとみているらしい、
纏向遺跡から出た木製仮面の話が最後の最後に出たので、おまけ。
副題が「検証 邪馬台国畿内説と伊都国」で糸島市と奈良県桜井市・田原本町の三市町共催の取り組みで、先日奈良の飛鳥に行ったこともあり、これは行かねばと腰を上げたのだった。
基調報告を聞いていると、邪馬台国の候補地を考えるにあたって、桜井市の纏向遺跡は具体的な遺構や遺物で論議ができるが、九州説の場合、それがない(少ない)という指摘があり、確かにそうだと思った。
九州説、危うし!
シンポジウムで桜井市立埋文センター所長の橋本輝彦氏は、ずばり面白いことを言った。
「纏向遺跡の担当者は誰も箸墓古墳が卑弥呼の墓だとは思っていない。どうも箸墓の年代は260年以降である。年代的には(同じ纏向遺跡の)勝山古墳が卑弥呼の墓に合う」
さらに台与の墓についても言及があったが、残念ながら「ヒラ何とか」としか聞こえず、地図で見ると「ひ」で始まるのは東田大塚古墳か。
2つの古墳は前方部が長いという共通した特徴があることから、卑弥呼と台与の2人の墓だとみているらしい、
【纒向勝山古墳】
— 大弥生時代bot (@yayoibot8) November 2, 2023
所在地:奈良県桜井市
纒向遺跡内に点在する纒向古墳群の一つである。邪馬台国時代(3世紀前半~中頃)に築造された最初期の前方後円墳であり、全長は約115メートルにも及ぶ。埋葬施設は現段階で未調査のため詳細不明。 pic.twitter.com/ly2LWd2e5p
纏向遺跡から出た木製仮面の話が最後の最後に出たので、おまけ。
佐賀市金立町にある縄文時代早期、8000年前の東名(ひがしみょう)遺跡から出た「人面状木製品」を思い出す。
— コラムニスト-1.0 としどん (@tossiee) October 30, 2023
6000年も違うのによく似ているのが気になる。 https://t.co/KecInhXCmF
卑弥呼の墓として圧倒的に有力な平原弥生古墳 ― 2023/06/17
吉野ケ里遺跡で未調査だったエリアから石棺墓が見つかり、蓋石が開けられて全国的な注目を浴びたが、副葬品が何も出てこなかったというので評判が悪い。
吉野ケ里=邪馬台国=卑弥呼の墓ではないかという飛躍した期待があったからだ。
結果は、石棺内の全面に赤色顔料が塗られていたというだけだった。
実は、すでに学者の一部が卑弥呼の墓に違いないと考えている遺跡がある。
その発掘調査に携わったのが、最近よく言及している原田大六だ。
原田大六『実在した神話 発掘された「平原弥生古墳」』(1966年)を読んだ。
原田は、亡き師の中山平次郎から受け継いだ、北部九州の弥生墳墓と近畿地方の古墳との連続性を証明しようと取り組んでいた。
そのためには①弥生後期後半の王墓で②割竹形木棺の始まりで③盛土古墳の始まりである――という3条件を満たす遺跡を見つける必要があった。
すると、何たる天の配慮か、1965年、地元糸島市の平原で、鏡が出土したという連絡が入った。
夜、地主の家に駆けつけた原田はわが目を疑った。
巨大な白銅鏡の破片がある。試しに測ってみると直径46センチを超えている。素環頭太刀もある。
弥生後期後半の王墓の副葬品だと直感した。
翌早朝、現場に行って、膝から崩れ落ちるようなショックを受けた。
みかんの苗木を植えるために6本の溝が掘られていた。
しかもよく聞いてみると鏡が出てから2週間もたっているという。
破壊のために調査は長引いた。
しかし、待望の割竹形木棺の跡が出てきた。
弥生文化における初めての割竹形木棺の発見だ。日本最古の割竹形木棺ということでもある。
そして圧倒的な副葬品の質と量だった。
これらがもし今回の吉野ケ里遺跡の石棺から見つかっていたら、世間はひっくり返るような大騒ぎになり、もう卑弥呼の墓に間違いない、ここが邪馬台国だ‼となったことだろう。
しかし、原田大六はそんな主張をしなかった。
「ケンカ大六」と気性の激しさで知られているが、学問には誠実なのだ。
卑弥呼の時代より100年古いため、被葬者は古事記に出てくる玉依姫(たまよりひめ)だとした。
初代神武天皇の母親であり、神名は天照大御神だ。
しかし、50年以上たった今、年代はもっと柔軟に考えられている。
森浩一は1975年に原田大六宅で、原田が磨き上げた鏡の破片を見て驚嘆したという。のちの名著『日本神話の考古学』(1993年)も原田の影響を強く感じさせる著書だが、その中で「(原田の)報告書では、平原古墓の年代は『二世紀中ごろを下るものではない』と弥生時代後期に位置づけられている。私は、弥生後期のなかにおさまるものとみているが、年代はもう半世紀ないし一世紀ほど下がる可能性も考えている」という。
慎重な書き方だが、二世紀中ごろに一世紀を足せば、まさに卑弥呼の時代、三世紀半ばだ。言外に卑弥呼の墓でも構わないと言っているのだ。
今回の吉野ケ里遺跡石棺騒ぎ(たいした騒ぎじゃないが)でもテレビに出てきていた高島忠平氏も2020年に「私は、ずばり、卑弥呼の墓は糸島の平原1号墳であっても構わないと考えています」とシンポジウムで述べている。
原田大六も、原田らしくずばり、平原弥生古墳は卑弥呼の墓だ、と言ってほしかった。もったいなくて、残念に思う。
下は伊都国歴史博物館3階展示室の平原王墓発見状況の原寸大模型
原田大六が面白い ― 2023/06/07
在野の考古学者、原田大六(1917-1985)が面白い。
福岡県糸島市を拠点に活躍。平原遺跡の発掘調査で有名なことは伊都国歴史博物館を訪ねて知ってはいたが、その時点ではあまり興味を持たなかった。
装飾古墳に関する良い文献を探すうちに、国会図書館デジタルコレクションで原田大六『磐井の叛乱』(1963)を知り、読んで驚いた。
五郎山古墳の壁画に描かれている家屋が筑紫神社だというのだ。
これをきっかけに、五郎山古墳の被葬者が分かった(4/30参照)。
この詳細はしかるべき形で発表したいと考えている。
古書で『新稿 磐井の叛乱』(1973)を購入して読んだが、やはりすごかった。私の興味あるところが全て網羅されている。
以来、嵌まってしまってデジコレでちょこちょこ読んでいるが、目から鱗のことが多い。例を挙げよう。
日本書紀や七支刀銘文、広開土王碑文によって明らかなように、日本は4世紀半ばから朝鮮半島南部(いわゆる任那=加耶)を勢力下に置き、百済や新羅を服属させている。
とにかく日本は戦の強い国だった。
百済や新羅が困ったときには軍隊を派遣してやって、そのお礼にいろんな文物を献上されるという関係だったのである。
日本の輸出品は軍事力、輸入品は技術工芸だったともいえる。
しかし、6世紀になると、朝鮮半島が乱れてくる。
562年には新羅が任那日本府を滅ぼす。
原田大六は「任那に山城を築いて防戦したということも無かったらしい。日本軍は攻撃法は知っていたが退却して防戦する方法を知らなかったのであろう」と指摘する(『考古学研究』(1959.12)掲載の「神籠石の諸問題」)。
日本本土にも防衛施設はなかった。
「古墳文化前期から中期まで、いや後期にさえも、神籠石が姿を見せる以前には、日本には大軍を迎え撃つに足る城塞らしきものは全く見受けない」
こうして6世紀末から九州各地に神籠石が築かれるが、今度は完全防備に徹してしまって攻撃には適さないものを造ってしまった。原田大六は「愚城」とこき下ろしている。
これで分かった。
日本は663年に白村江の戦いで負けてから慌てて、水城、大野城、基い城を築くのだが、そのとき国を失って日本に来ている百済人を遣わして築かせたと書記に書いてある。
日本には巨大古墳を造る土木技術が既にあったのに、百済人に教わる必要があったのかと疑っていたが、日本人は実戦向きの城を築いたことがなかったのだ。
このほか、原田大六『卑弥呼の墓』(1977)には、強烈な松本清張批判が書かれている。
私も松本清張の古代史本はよく読んでいるので、時間の無駄だったかと腹立たしい思いがする。古代史好きには注意を促したい。
福岡県糸島市を拠点に活躍。平原遺跡の発掘調査で有名なことは伊都国歴史博物館を訪ねて知ってはいたが、その時点ではあまり興味を持たなかった。
装飾古墳に関する良い文献を探すうちに、国会図書館デジタルコレクションで原田大六『磐井の叛乱』(1963)を知り、読んで驚いた。
五郎山古墳の壁画に描かれている家屋が筑紫神社だというのだ。
これをきっかけに、五郎山古墳の被葬者が分かった(4/30参照)。
この詳細はしかるべき形で発表したいと考えている。
古書で『新稿 磐井の叛乱』(1973)を購入して読んだが、やはりすごかった。私の興味あるところが全て網羅されている。
以来、嵌まってしまってデジコレでちょこちょこ読んでいるが、目から鱗のことが多い。例を挙げよう。
日本書紀や七支刀銘文、広開土王碑文によって明らかなように、日本は4世紀半ばから朝鮮半島南部(いわゆる任那=加耶)を勢力下に置き、百済や新羅を服属させている。
とにかく日本は戦の強い国だった。
百済や新羅が困ったときには軍隊を派遣してやって、そのお礼にいろんな文物を献上されるという関係だったのである。
日本の輸出品は軍事力、輸入品は技術工芸だったともいえる。
しかし、6世紀になると、朝鮮半島が乱れてくる。
562年には新羅が任那日本府を滅ぼす。
原田大六は「任那に山城を築いて防戦したということも無かったらしい。日本軍は攻撃法は知っていたが退却して防戦する方法を知らなかったのであろう」と指摘する(『考古学研究』(1959.12)掲載の「神籠石の諸問題」)。
日本本土にも防衛施設はなかった。
「古墳文化前期から中期まで、いや後期にさえも、神籠石が姿を見せる以前には、日本には大軍を迎え撃つに足る城塞らしきものは全く見受けない」
こうして6世紀末から九州各地に神籠石が築かれるが、今度は完全防備に徹してしまって攻撃には適さないものを造ってしまった。原田大六は「愚城」とこき下ろしている。
これで分かった。
日本は663年に白村江の戦いで負けてから慌てて、水城、大野城、基い城を築くのだが、そのとき国を失って日本に来ている百済人を遣わして築かせたと書記に書いてある。
日本には巨大古墳を造る土木技術が既にあったのに、百済人に教わる必要があったのかと疑っていたが、日本人は実戦向きの城を築いたことがなかったのだ。
このほか、原田大六『卑弥呼の墓』(1977)には、強烈な松本清張批判が書かれている。
私も松本清張の古代史本はよく読んでいるので、時間の無駄だったかと腹立たしい思いがする。古代史好きには注意を促したい。
土器の違いは食生活の違い? ― 2023/06/03
複雑怪奇な縄文土器が、なぜシンプルな弥生土器に劇的に変わったのか、正直よく分からなかった。
こういう根本的な問題ほど、明快な説明がないのは世の常。
福岡市博物館の展示にヒントがあった。
弥生時代は水田稲作が始まった時代。
当然、炊飯は土器だ。
新しい形の煮炊き用土器が普及し始める(板付式)。
ふちが外に張り出して蓋をかけやすい(のせやすい)、持ちやすいという。
大型の土器でいろんな食材をごった煮にした縄文時代と、米だけを炊く土器が現われた弥生時代の違いということかな。
しかし、なぜ弥生土器の蓋は出ないんだろう。
いや、正確に言うと、土器の蓋は出ているようだ(見たことはないが)。
でも普通に考えて木製の蓋を使っていたと思うのだが、木だから腐って残っていないんだろうか。
また、縄文と弥生とのデザインの違いは、素人考えだが、縄文の食事がある意味、祝祭的な空間だったのに対して、弥生ではそうした意味を失ったせいではないだろうか。
こういう根本的な問題ほど、明快な説明がないのは世の常。
福岡市博物館の展示にヒントがあった。
弥生時代は水田稲作が始まった時代。
当然、炊飯は土器だ。
新しい形の煮炊き用土器が普及し始める(板付式)。
ふちが外に張り出して蓋をかけやすい(のせやすい)、持ちやすいという。
大型の土器でいろんな食材をごった煮にした縄文時代と、米だけを炊く土器が現われた弥生時代の違いということかな。
しかし、なぜ弥生土器の蓋は出ないんだろう。
いや、正確に言うと、土器の蓋は出ているようだ(見たことはないが)。
でも普通に考えて木製の蓋を使っていたと思うのだが、木だから腐って残っていないんだろうか。
また、縄文と弥生とのデザインの違いは、素人考えだが、縄文の食事がある意味、祝祭的な空間だったのに対して、弥生ではそうした意味を失ったせいではないだろうか。













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