アンチ太宰派に捧げる書2024/01/03

アンチ太宰派に捧げる書。

「この男は、許さない」……女給お花の命を奪った男。

林芙美子が太宰治を〝成敗〟する。

『浮雲』の舞台はなぜダラットか2023/12/22


こんなXの投稿があった。

寺内正毅、寺内寿一の親子はともに元帥、陸相となった栄光の軍人である。
しかも、ともに光頭。

寺内寿一元帥の南方総軍司令部はサイゴン→シンガポール→マニラ→サイゴンと、戦局の転換に伴って移動を余儀なくされた。
総司令官の移動は極秘であるから、「天下征討」という隠語で呼ばれたという。
「天下征討実施せらる」との飛電が隷下の各軍に伝えられた。

寺内は開戦以来、一度も日本へは帰れなかった。

マニラはわずか半年、レイテ戦の最中の昭和19年11月17日、南方軍総司令部はサイゴンへ移った。

だが、70歳の老将軍は中風に侵されて身動きもままならなかった。
気候の良い避暑地ダラットの高原で療養し、そこで日本の降伏を知った。

ダラットといえば、林芙美子の代表作『浮雲』の前半部分の舞台である。
主人公の男女が戦時中、不倫の恋をするのが仏印のダラットなのだが、なぜダラットなのかは研究者には謎で、林芙美子の描写は見ていないと書けないものないものであり蘭印に行く途中で立ち寄ったのだろうとか、いや想像で書いたのだろうとか些末な論争に明け暮れていた。

いや、違う。
ダラットは敗戦時に南方軍総司令官がいた、南方戦線終了の象徴的な場所だったのだ。

拙著『林芙美子が見た大東亜戦争』p.204-207「ダラットは南方軍の終焉を象徴する場所」を読んでいただきたい。

関東大震災と林芙美子2023/08/31

〝島の男〟岡野軍一と別れた大正12年(1923)の9月1日、林芙美子は関東大震災に遭う。本郷の西片町に下宿していた。震災発生時について『一人の生涯』に書いている。

拙著『花に風 林芙美子の生涯』p.87~88に該当部分を引用していますので、ご覧になってください。

「井戸水に毒がはいっているから注意をしろとか、××人が革命をおこしたとか、さかんに流言が飛んでいました」という一節もある。

林芙美子の南京従軍記(昭和12―13年) 出版社求む!2023/08/15

林芙美子は昭和12年12月末、占領後の南京に初めて入った日本人女性である。
だから、その記録は極めて重要だ。

私はすでに『林芙美子が見た大東亜戦争』『花に風 林芙美子の生涯』の2冊を世に問い、その中で一連の南京従軍記を紹介してきたが、やはり読者には林芙美子の原文全体を読んでもらいたいという思いが強い。

中華民国の首都・南京は昭和12年12月13日、日本軍によって陥落する。
作家の林芙美子は東京日日・大阪毎日新聞(のちの毎日新聞)の特派員として、すぐに旅立つ。
12月27日、長崎を出港し、29日上海着。翌30日陸路で南京に向かい、大みそかに到着。明けて13年1月3日まで滞在した。南京市内に3泊、前後に露営を1泊ずつ、計5泊6日の従軍である。

目次
【従軍記】
会遊の南京
従軍の思い出
南京
露営の夜
南京行(女性の南京一番乗り)
静安寺路追憶
私の従軍日記
五月の手紙
『私の昆虫記』あとがき
北岸部隊(抄)=南京関係部分のみ
【小説】
黄鶴
河は静かに流れゆく

凡例
一、林芙美子著『私の昆虫記』(昭和13年7月、改造社)の中から、南京従軍に関する文章7編と「あとがき」を選び、『心境と風格』(昭和14年11月、創元社)所収の「南京」を加えた。また、『北岸部隊』(昭和14年1月、中央公論社)の中から南京滞在時の文章を抜粋した。
一、なるべく時系列になるよう並べ替えたが、各編は独立して書かれており、必ずしもそうはできなかった。その際は流れの分かりやすさを重視した。
一、「黄鶴」は小説だが、主人公の重子は明らかに芙美子そのものである。昭和13年3月という早い時期に書かれていることも重要だ。また、「河は静かに流れゆく」(『悪闘』昭15・4)は、芙美子が朝日新聞南京支局長宅のアマ(中国人の女中)に取材したもので、南京で暮らす中国人の視点で書いており、南京戦を別な角度で見ることができる。

これだけの貴重な記録――南京大虐殺があったとされる時期の重要な記録が埋もれているのは不可思議だ。
どうか出版するところが出てきてほしい。原稿はすぐにでも用意できる。
ちなみに今年は林芙美子生誕120年の節目でもある。

昭和35年11月の家族写真2023/04/04

昭和35年11月、桜島・古里温泉の林芙美子文学碑前で。

母と姉と。

私は2歳11カ月だ。

林芙美子忌に思う2022/06/16


林芙美子門司生誕説を初めて唱えたのは、門司で外科医院を開業していた井上貞邦だ。
昭和47―48年に「北九州医報」に発表した。
芙美子が亡くなった昭和26年から21年もたってからのことだ。

林芙美子の実父宮田麻太郎の店で働いていた横内種助の娘佳子は、芙美子の幼なじみである。
昭和4年の芙美子の門司での講演会をきっかけに、佳子と芙美子の交流は復活し、以来、折を見てはかなり頻繁に会うようになった。
(『現代日本文学アルバム 林芙美子』の足立巻一の論考に詳しい)

佳子は井上貞邦の養母で、井上自身も何度も芙美子に会い、写真も残っている。

私の疑問は、なぜ、井上は生前の芙美子に門司生まれかどうかを確認しなかったのか、ということだ。
なぜ、没後21年もたってから発表したのか。

井上が昭和4年に初めて芙美子に会ったとき、門司中学四年生だったというから15歳だろうか。
翌昭和5年に出た『放浪記』を読むと下関生まれと書いてあるので、祖父の横内種助に確認すると、「下関はその後よ。生まれたのは小森江じゃがいの」と言われたのが、門司・小森江出生説の根拠である。
と言っても横内種助が芙美子の出生を身近に見聞したのではなく、宮田麻太郎に後から聞いた話だという。

林芙美子が亡くなった時点で、井上貞邦は37歳ほどである。
その間、じゅうぶん自分の疑問を解く時間があったのに、それをしなかったのが不可解である。

芙美子の母キクにいたっては昭和29年まで生きていた。
芙美子の出生地を100%知っているのは、母親のキクである。
面識のあるキクに聞く機会もいくらもあったはずである。

そして昭和48年に突如として出てきた、この門司生誕説を同52年刊行の林芙美子全集(文泉堂)が無批判に採用してしまった。

編集と年譜を担当したのは今川英子(現・北九州市立文学館館長)。
当時、私立女子校の国語教諭だった。
日本女子大学大学院のゼミの担当教官だった吉田精一から頼まれた(丸投げされた?)もので、特に林芙美子を研究していたわけではない。

下関説と門司説との両論併記ならまだしも、門司生まれと断定してしまったのはいかにも愚かだったと言わざるを得ない。研究者として失格である。

このあと全集は出ていない。
林芙美子の最後の全集の年譜に門司生まれだと記載されてしまった影響は計り知れない。

今川さんも今さら門司説を訂正するのは勇気がいるだろうが、ぜひとも何らかの方法で訂正してもらいたいと願うばかりである。

ゾルゲの遺骨を北方領土に移すだと⁉2022/03/03

拙著『花に風』は副題にあるように作家・林芙美子の生涯を描いたものだが、実は最も書きたかったのは「朝日新聞と戦争と共産主義」というテーマである(帯にもそう書いた)。

林芙美子は戦争中、朝日新聞と仕事をすることが多かった。

そこから戦争中の朝日新聞についてどんどん調べていった。
私自身、新聞記者をしていたので関心がある。

するとどうしても尾崎秀実という存在に突き当たる。

朝日新聞記者だった尾崎は共産主義者としてソ連に忠誠心を抱き、ソ連赤軍のスパイであるリヒャルト・ゾルゲに忠実に従って、日本の国家最高機密情報を伝え続けた。

尾崎とゾルゲの最大の狙いは、日中戦争を終わらせないことと、いわゆる南進論へ日本を導くことだった。

日本が中国戦線や南方戦線に注力すれば、満州の守りは手薄になりソ連に有利になるからだ。
歴史はこの通りに進行し、日本がソ連に手痛い目に遭ったのはご存じの通りだ。

尾崎ゾルゲ事件は日本史上最大のスパイ事件であり、ともに死刑に処せられたのは当然だ。

ところが、尾崎著『愛情は降る星の如く』や岩波系文化人の木下順二作「オットーと呼ばれる日本人」によって、まるで尾崎が平和を願っていたかのような180度ひっくり返された人物像を信じる人もいる。

それについては朝日新聞で上司だった鈴木文四郎が、尾崎の実像を書いた文章がある。
『花に風』あとがきに引用したのでぜひ読んでほしい。

さて、表題のゾルゲの遺骨について。
一昨日の1日付産経新聞「斎藤勉のソ連崩壊と今」(1面と7面)によると、ロシアのプーチン大統領は赤軍スパイ、ゾルゲを英雄視しており、その遺骨を東京の多磨霊園から北方領土に移す計画が進んでいるというのだ。

日本はまたしても深刻な歴史戦にさらされようとしている。

日本人が尾崎は良い人だった、処刑した日本の国が悪いんだと考えるようなら、この歴史戦には勝てない。