国会図書館恐るべし2023/06/07

国立国会図書館オンラインの所蔵資料検索で、試しに「宮田俊行」と入れてみると、私がこれまで書いた単行本や文章8件が過不足なく出てきた。

野崎六助「こんな面白い作品は初めて」2023/03/15

私が書いた小説「取材ノートのマンモス」について、野崎六助氏は「(月刊公募ガイドの)講座に寄せられてくる数多の原稿のうちで、こんなに面白い作品に当たるのはおよそ初めてのことでした」と高い評価を与えてくれた。

野崎 六助(のざき ろくすけ、1947年11月9日 - )は、日本の小説家、文芸評論家。 東京都品川区生まれ。京都府立桃山高等学校卒業。コック、大工など多数の職を経る。1992年、『北米探偵小説論』で第45回日本推理作家協会賞(評論その他の部門)受賞。推理小説、推理小説評論を主に書く。日本推理作家協会会員。=『ウィキペディア(Wikipedia)』=

私はこの作品「取材ノートのマンモス」を公募には出さず、親しい友人である鹿児島市の出版社ジャプランの求めに応じて、「現代鹿児島小説大系」中の一篇として提出した。
このため、残念ながら広く手に取りやすい作品とはなっていない。

コメント欄から連絡をいただければ、同書(函入り、408ページ)定価5000円(税別)のところを1500円(税込み、送料込み)でお分けいたします。
コメントはチェックしてから公開する設定にしていますので、他の人に見られる心配はありません。

南日本文学大賞受賞者の男性からも「『現代鹿児島小説大系』全4巻の作品の中で、一番面白かった」と言われました。ぜひご一読ください。

◎「取材ノートのマンモス」あらすじ
 江頭順平は南国日日新聞社で長く記者をやってきた。
 ある日、会社が突然、グループ企業を一つにまとめるという名目で新築移転計画を発表した。江頭はその準備室に異動になる。
 内情を知ると移転には金がかかり過ぎており、誰かが不正をしている疑いがある。だが、江頭は立場上、社長の命じるまま新社屋建設を先頭に立って推進しなければならなかった。
 新社屋は完成し、江頭は今度は社史編纂室に配属になる。
 そんなとき、新社屋建設準備室で部下だった平岡が、動物園の象の池で溺れるという怪死事件が起こる。これは事故死か殺人か――。 伝説の英雄ゴウキチが起こした戦の生き残りが創立したという、誇り高い歴史を持つ新聞社は、今や犯罪と疑惑にまみれている――。江頭は葛藤しながら、事件の謎解きに挑む。

※前回書いたように、ゴウキチは大江健三郎『同時代ゲーム』の「壊す人」に触発された存在です。

母の見舞い2022/11/13

 あれは確か大学卒業の前年だったろう、母がまた入院したというので、夏休みで帰省した私は見舞いに行くことにした。病院は南北に細長い県庁所在地の一番南の外れにある赤十字病院だった。私の実家は北の台地にあるので、私営のバスでいったん中心街に下りて、また別の民間バスに乗り継いでいかねばならない。免許は持っていたのだが、車は父が通勤に使っていた。あるいは父は県内の別の町に単身赴任中だったかもしれない。ともかく車はなかった。でもそんなことは大したことじゃない。出かける前に大きな問題が起こった。
 高校時代の友人から電話があり、自分も帰省しているから会おうというのである。私は、これから母の見舞いに行くから、と断った。ところが、友人は引き下がらないのである。私はせっかくの水入らずに友人など連れて行きたくはない。おまけに日程の都合で見舞いに行けるのはその日しかなかった。そのころ東京では長期のアルバイトをやっていたし、上京してからようやく初めての恋人らしきものができたばかりだったという、そうしたもろもろの理由で滞在日程は短かったのだ。なんと言っても、入院という事情が事情である、普通なら分かってくれるはずだ。
 この友人をここではNとしよう。Nと私とは高校二年の時に同じクラスになった。Nはこの町にある、全国的に知らない者はないくらいの有名な私立の中学校から、県立高校であるうちの高校に入ってきていた。その私立は中高一貫教育だったから、高校で転じたのは奇妙なことだった。それにNは成績も悪くなかった。もっともそれは最初だけで、どんどん下降していったのだが、それは私も同じだ。Nはガロアという二十歳で死んだフランスの数学者に憧れていた。そのガロアの理論をNが本当に理解しているかどうかは数学に興味のない私にはわからなかったが、とにかくガロアはカッコイイ(当時の若者には最高の褒め言葉だった)らしかった。
 私はNの家によく遊びに行った。Nはジャズピアニストのキース・ジャレットのレコードをよく掛けた。本棚には手塚治虫の「火の鳥」の大判のコミックを全巻揃えていた。その本棚のさらに奥には、普通の高校生ならとても読みそうにない、どころか見たことさえない「SMマガジン」とか「薔薇族」などという淫靡な雑誌が隠してあった。Nはいったいどんな顔をしてそれらの雑誌を本屋で買うのだろう。私は一度だけその雑誌を借りたことがあったが、あまりに変態的で読めた代物ではなかった。その中で今でも覚えている読み物がある。それは小人の男が主人公で、いつも女性に馬鹿にされじらされ弄ばれているのだが、あるときついに女性器の中に身体ごと入って、すなわち全身が性器と化して強烈なエクスタシーを感じるというものだった。
 Nは硬式テニスが上手で少しは自信もあったようだが、校内の持久走大会で運動の得意ではない私が終盤に抜き去るとびっくりして、次に「へへへ」と照れ臭そうに笑ったものだ。Nとはバンドの真似事もした。とにかく二年の時はよく遊んだのだ。三年になると理系と文系に分かれ、Nは結局東京のぱっとしない私立の理科大学に進んだ。私も東京の私立大学に進んだのだから、東京で会うこともできるのだ。
 それなのに、私が母親の見舞いだと言っているのに、Nはそれなら自分も一緒に行くという。Nはどうしてこんなわがままを言ったのだろう。病床というのはある意味、神聖な場であろう。母の病気は生易しい病気ではなかった。私がちょうど大学受験のころのことだった。夜、父が「お母さんがおかしい」と困った様子で呼びに来たので両親の寝室に行ってみると、母が布団の上で身を屈め、手を押さえて「痛い、痛い」と泣いていた。Nの口癖に「よかいさ」というのがある。方言で「いいじゃないか」という意味である。きっとこのときもNは「よかいさ」と言ったのだろう。私はバスの時間も迫っており、「わかった、わかった」ということになったのかもしれない。
 同じ市内とはいえ、バスの接続がうまくいったとしても病院まで二時間以上かかる。道中の会話などは覚えていない。町外れへ向かうバスはがらんとしていたに違いない。南国の夏は暑くて窓をいっぱいに開け放し、会話も弛緩していただろう。海沿いの道を長く走った。この町は大きな火山の外輪山の内側に海が流れ込んでそのまま湾になっているので、平地は海沿いに細く長くあるだけだ。市街地も住宅地も抜け、まばらな集落の向こうにヨットハーバーが見えてきた。
 ようやく着いた病院は、海の中に突き出た広い敷地にあった。懐かしい小中学校の木造校舎のような建物が延々と続いている廊下を歩いていくと、母がいた。
 母は病院の白い着物を着ていた。不意の客であるNにも嫌な顔ひとつ見せず、輝くような笑顔で迎えてくれた。しばらくしてから、母が着物の裾をまくって自分の太腿を見せたのを覚えている。白い太腿の内側には赤い大きなあざがあった。「こんなところに、ほら、血の固まりができてしまって」。そんな言葉で明るく話したが、それは大変なことに違いなかった。母は循環器系の難病に冒されていた。血が多い上に固まりやすく、それが身体の末端部に詰まって壊疽をつくり激痛が走る。元来、母は従順な人で、物事に細かく口やかましい父に口答えひとつしたことがなかった。そうした長年の我慢がそうした症状となって出たのではないかとも思えた。私は母が良くなるなら大学受験などあきらめようと思い詰めたものだった。母は壊疽となった片手の人差し指を手術で切断するという大きな犠牲を払ったが、それで症状はいったん落ち着いた。そして私は第一志望には通らなかったものの、受かった大学に進学した。その後も母は症状が悪化しては足の指を何本か切るという繰り返しで、病気は一進一退という形だった。それが、これまでと違って手足の末端部ではない太腿にまで内出血しだしたというのはどういうことだろう。一進一退ではなく、確実に事態は悪い方に向かっていたのではなかったか。Nがいたから遠慮したのか、その詳しい説明はなかった。私は今さらながらNを連れてきてしまったことを後悔した。私はもっともっと母と甘いひとときを持ちたかった。物足りないままに母の元を辞した。そのあとNとどうしたのか全く記憶にないが、言葉少なく別れたと思う。
 その翌年、母は亡くなった。すなわち、あれは結果として母と共有できた残り少ない貴重な時間だったわけだ。
 あれからもう四十年余りがたつが、私のNに対する憎しみはかえって増している。
 あの日、台無しになってしまった病院でのこと、こればかりは取り返しがつかない。Nはどうしてあんな思いやりのないことをしたのか。赤の他人に患部の太腿を見せた母の気持ちを考えるといたたまれない。
 Nにはもう一生会うことはないだろう。会ってNを責め、反省させてやりたい気もするが、それとて不愉快なだけだ。

ボスは敵 知りて支局に残る春2022/03/04

新聞記者を辞めてミステリー小説を書こうとしていた時期が長かった。
しかし、なかなか良いものが書けない。

 じっと家に籠もり、プロットを考えていると、辞めた会社への恨みがふつふつと湧いてくる。
 しかし、ネガティブな感情にもとづくものは読者も楽しくあるまい、駄目だとまた悩む。

 そんなときに、横山秀夫の言葉に出会った。
 横山は「小説を書くことで世の中に復讐してはいけない」という。
 だが、それに続けて「執筆の動機はそれだって構わないんです。正のエネルギーよりも負のエネルギーのほうが爆発力が強いですからね。ただ、復讐心に限らず、負の感情を執筆の原動力にした場合、作品にする道程のどこかで昇華しなければいけない、一次的な感情をそのまま字にしてはならない、と常々思っています」と述べている。
 これが私の指標となった。

 みっともないから自分の胸の内に秘め、会社の誰にも家族にも話したことがなかった数々の〝事件〟。それをフィクションという形に昇華して世に出そうと何年ももがいた。

佐賀市のカルチャーセンターで、「現役プロ作家が教える」文章教室を見つけた。

「もうこれに賭けるしかない。成果が出るまで何年でもしがみついてやる!」と切羽詰まった思いで申し込んだ。
 月に二回、土曜日の午後の一時間半。自宅から車で一時間二十分ほどかけて通う。

満を持して、私は会社での出来事をもとにしてプロットを提出した。
もととなった事実は次のようなことだ。

私は36歳の時、鹿児島の新聞社の枕崎支局長になった。
年度末恒例の本社での支局長会議のあと、編集局長が私一人に残るように命じた。
 何を言われるかと思いきや、枕崎の市長がうちの社長に支局長を代えてほしいと訴えているというのだ。市長と社長は鹿児島大学の先輩後輩の間柄だという。ついては支局を出てもいいし、残ってもいい、どうするかというのだ。
 どうするかと言われても、寝耳に水だ。確かに反市長派の市議と仲が良かったが、それは取材の一環だ。そんなことは記者出身の社長も分かっているだろう。市長の言い分を鵜呑みにしてそのまま局長に伝え、私に伝えるのではなく、社長のところで止めるべきではないか。
 なぜ?と戸惑いながらも「残留させてください」というしかなかった。

このプロットに対する、作家(講師)の反応は意外なものだった。

「市長が新聞社の人事に影響力を及ぼしたとしたら、大スキャンダルじゃないですか」。言外に「そんなこと現実にはあり得ないでしょう」と反語のニュアンスがある。
「例えば、こうしたらどうか」――作家は代替案を示し始めた。つまり、こんな現実離れしたプロットでは読者は付いてこない、リアリティーがないから変えろと言っているのだ。

(いや、実際にあったことなんだ……)あとはもう、耳に入らなかった。
 そうか、あれは大スキャンダルだったのだ。
 何事も気づくのが遅い人間だが、二十年も経ってから気づかされるとは。

 大スキャンダルという発想はなかった。個人的なパワーハラスメント(当時そんな言葉はなかったが)として受け取っていた。私ごとだから誰にも打ち明けなかった。
 しかし、理不尽な目に遭ったことを表現したい。フィクションとして昇華したいという切実な思いで苦しんでいた。
 それが実は、スキャンダル=報道機関の不祥事という社会的な意味を持つものだったとは! コペルニクス的転換が起こった。
 プロの作家さえも現実とは思えないような、非常識な仕打ちに自分は遭わされたのだ。

今日のひとこと2021/08/19

エクストラポレーション(外挿)とは

SFで例えば、「流刑の惑星」というものを書こうとするときに、誰もそんなところに行った人はいないわけです。
そこで、オーストラリアの歴史を調べる。
オーストラリアはかつてイギリスの流刑地でしたから。

~NHK BSプレミアム「“復活の日”の衝撃〜コロナ“予言の書”〜」


つい先ほど再放送を垣間見て、印象に残ったところを書き留めておく。
だから正確ではない。
語っていたのは豊田有恒だったようだ。
なるほど、SFの世界はそうやって構築していくのかと思った。

柳美里さんが全米図書賞2020/11/20

柳美里さんが全米図書賞を取ったことが、一部で物議を醸しているようだ。
というのも彼女が反日的な言動で知られているからだ。

私は15年ほど前だろうか、新聞社の文化部デスクをしていた時に彼女に会ったことがある。
その頃は私もまだ〝嫌韓〟ではなく、彼女に対しても悪い印象は全くなかった。

もちろん今では、反日的な言動は許せない。

ただ、彼女の場合、それもまた、商売道具にしている感じが強い。

彼女は自分の恋人や子供をネタにしたり(つまりプライバシーの切り売り)、東日本大震災の被災地に移り住んだり、作家で居続けることに必死だ。

そこまでして作家を続けたいかと痛ましくも思うが、なまじ芥川賞なんか取ったばかりに意地があるんだろうなあ。