人に烙印を押したがる奴 ― 2026/07/02
佐藤二朗さんの件で重要なご指摘
— 浜田 聡 前参議院議員 日本自由党月額980円党員募集中💉💉💉 YouTube&ブログ毎日更新 (@satoshi_hamada) July 2, 2026
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週刊誌に一度書かれると、世の中ではそれが「事実」のように受け止められてしまう。
本人がどれだけ説明しても、どれだけ違うと訴えても、最初についた印象を覆すことは本当に難しい。 https://t.co/8GodLkQ1uY
人の噂も同じ。
だから必ず発信する側に回って、「あの人ってこういう人だよね!」と早めに人に烙印を押す奴がいる。
それで自分は安心安全というわけだ。
新聞社にも2つほど下の女に凄いのがいたな。
若い頃からずっと、同期の濁水と一緒になって人の噂ばかりして、人を一方的に決めつけていた。
私が支局から本社に戻ってくると、蟻川といつもひそひそ話をやっていた。
私もこれにやられたと思っている。
庄司薫氏に捧ぐ、1979年の僕の文章 ― 2026/06/28
今、僕らの声を代弁する文学者は誰か?
今、僕らの声を代弁する文学者は誰か、と銘打ったが、では、「僕らの声」とは何だろうか。わからない。それがわかれば、僕らに文学などいらない。僕らは、僕ら若者の声、同世代の共感を文学に見出そうとするからだ。そこで定義付けをしてみる。僕らの声を代弁する文学とは、現実の閉ざされた、沈滞した状況を切り開いてみせ、その向こうに新しくて広い空間を見せてくれる文学である。なぜなら若者は、享楽的なだけでなく(そういう面は確かにある)、この時代や原状に満足せず、何らかの新しい展開や希望や社会・時代との関わりを求めていると信ずるからだ。では、そういう文学が今あるだろうか。
高橋和巳→庄司薫→中上健次という流れを設定してみよう。連想ゲームをすれば「硬い→さわやか→泥くさい」または「厳しい→やさしい→激しい」とでもなろうか。この3人を若者の代弁者とするには異論があるにせよ、この3人が「ある時代」を象徴しているのは確かだろう。
10年前の学生を論ずるのにかかせない全共闘、その全共闘の問題提起「大学解体」「自己否定からの出発」を真摯に受け止めた高橋和巳。例えば大学の講堂などの封鎖戦術も建物による、一つの機構の「自己否定」だとして、「それが同時に既存の秩序全体に向けての非常に強烈な告発になっている」と考えた(「自己否定の論理」)。
しかし、多くの学生が共鳴し行動した全共闘運動は、機動隊の「力」と内ゲバにより挫折し、学生運動は一般学生に見放され、混迷を深める。その挫折・混迷に対して、自分自身の頭で考えること、思いやりややさしさという答を与えた庄司薫。それは単純なことだが、「薫クン」によって救われた元学生運動家や一般学生は多かったのではないか。それが歳月が下って僕らの世代になると、薫クンはファッションと化し、その意味を失ってしまう。
(以下略)
〜「MILESTONE '79 12/1増大号」(早大マイルストーン編集会)〜
庄司薫氏が亡くなった。88歳。20歳も上だったか?
庄司薫と村上春樹の若者に対するポップな影響力の大きさはよく似ている。
赤黒白青4部作(1969〜1977)はもちろん全部読んだし、NHKでドラマ化されて薫クンの彼女を仁科明子が演じたことも忘れられない。
1979年には上のように「薫クンはファッションと化し、その意味を失ってしまう」なんて書いているが、それまでは多大な影響を受けていたのは間違いない。
ようやく出来た彼女の腰を抱いて歩いたのもその影響じゃなかったか??
今、僕らの声を代弁する文学者は誰か、と銘打ったが、では、「僕らの声」とは何だろうか。わからない。それがわかれば、僕らに文学などいらない。僕らは、僕ら若者の声、同世代の共感を文学に見出そうとするからだ。そこで定義付けをしてみる。僕らの声を代弁する文学とは、現実の閉ざされた、沈滞した状況を切り開いてみせ、その向こうに新しくて広い空間を見せてくれる文学である。なぜなら若者は、享楽的なだけでなく(そういう面は確かにある)、この時代や原状に満足せず、何らかの新しい展開や希望や社会・時代との関わりを求めていると信ずるからだ。では、そういう文学が今あるだろうか。
高橋和巳→庄司薫→中上健次という流れを設定してみよう。連想ゲームをすれば「硬い→さわやか→泥くさい」または「厳しい→やさしい→激しい」とでもなろうか。この3人を若者の代弁者とするには異論があるにせよ、この3人が「ある時代」を象徴しているのは確かだろう。
10年前の学生を論ずるのにかかせない全共闘、その全共闘の問題提起「大学解体」「自己否定からの出発」を真摯に受け止めた高橋和巳。例えば大学の講堂などの封鎖戦術も建物による、一つの機構の「自己否定」だとして、「それが同時に既存の秩序全体に向けての非常に強烈な告発になっている」と考えた(「自己否定の論理」)。
しかし、多くの学生が共鳴し行動した全共闘運動は、機動隊の「力」と内ゲバにより挫折し、学生運動は一般学生に見放され、混迷を深める。その挫折・混迷に対して、自分自身の頭で考えること、思いやりややさしさという答を与えた庄司薫。それは単純なことだが、「薫クン」によって救われた元学生運動家や一般学生は多かったのではないか。それが歳月が下って僕らの世代になると、薫クンはファッションと化し、その意味を失ってしまう。
(以下略)
〜「MILESTONE '79 12/1増大号」(早大マイルストーン編集会)〜
庄司薫氏が亡くなった。88歳。20歳も上だったか?
庄司薫と村上春樹の若者に対するポップな影響力の大きさはよく似ている。
赤黒白青4部作(1969〜1977)はもちろん全部読んだし、NHKでドラマ化されて薫クンの彼女を仁科明子が演じたことも忘れられない。
1979年には上のように「薫クンはファッションと化し、その意味を失ってしまう」なんて書いているが、それまでは多大な影響を受けていたのは間違いない。
ようやく出来た彼女の腰を抱いて歩いたのもその影響じゃなかったか??
大スキャンダル⑤ ― 2026/06/27
そもそもN氏はなぜ市長選立候補を決意するに至ったのか。
3期12年務めた名物市長が引退を表明し、枕崎市の有力者たちは後継者選びに入ったが地元候補では一本化できず、東京でサンケイリビング新聞の編成局長をしていた今急冷に白羽の矢が立った。長く故郷を離れ落下傘候補に近かったが、中央とのパイプを期待されたのだ。今急冷は無投票当選した。
そのときN氏は市の総務課長だった。総務課長といえば行政の要である。新市長の人事では助役に抜擢されるとみられていた。ところが助役と収入役には従順でおとなしそうな年老いた2人が選ばれた。やり手のN氏は敬遠され、近隣の一市三町でつくる広域消防組合の消防長となった。左遷である。
N氏は恨みつらみを周りに隠そうとはせず、誰かれ構わず今急冷の悪口をまくし立てた。支局にもよくやってきたが、私は根気よく人の話を聞くので、ますます通ってくるのだった。
今思えば、私は自分が市長と社長から支局長を交代させられようとしている話をすれば、N氏も大いに憤慨してくれただろうが、当時は構図がよく分からなかったこともあり、私はもっぱらN氏の愚痴の聞き役だった。
そうして私は支局から本社に戻り、N氏ともご無沙汰していたので、事故には驚いた。報道ははじめ匿名だったので、自分が誰かの連絡でN氏だと知ったのかどうか、記憶にない。
乗客の男性が行方不明なので、県警ヘリが鹿児島市の谷山ヘリポートから鹿児島中央署員20人を乗せて硫黄島へ出発し、地元の消防団員と協力して捜索した。
事故の翌々日(11月8日)朝、N氏は硫黄島の湾内から遺体で発見された。
滑走路の一方の端は、防風林が20メートルほど続いたあと切り立った崖となっており、ここから海に転落していた。
死因は頭がい骨粉砕骨折による脳挫傷。
死後約48時間経過していたことから、飛行機墜落後まもなく転落したらしい。
当時は自殺なのか、足を踏み外した事故なのかはっきりしなかったが、最終的には自殺と断定されたようだ。
N氏は、航行中の航空機を墜落させたとして、「航空の危険を生じさせる行為等の処罰に関する法律」違反の疑いで、被疑者死亡のまま書類送検された。
今急冷は翌年1月、再び無投票当選した。
3期12年務めた名物市長が引退を表明し、枕崎市の有力者たちは後継者選びに入ったが地元候補では一本化できず、東京でサンケイリビング新聞の編成局長をしていた今急冷に白羽の矢が立った。長く故郷を離れ落下傘候補に近かったが、中央とのパイプを期待されたのだ。今急冷は無投票当選した。
そのときN氏は市の総務課長だった。総務課長といえば行政の要である。新市長の人事では助役に抜擢されるとみられていた。ところが助役と収入役には従順でおとなしそうな年老いた2人が選ばれた。やり手のN氏は敬遠され、近隣の一市三町でつくる広域消防組合の消防長となった。左遷である。
N氏は恨みつらみを周りに隠そうとはせず、誰かれ構わず今急冷の悪口をまくし立てた。支局にもよくやってきたが、私は根気よく人の話を聞くので、ますます通ってくるのだった。
今思えば、私は自分が市長と社長から支局長を交代させられようとしている話をすれば、N氏も大いに憤慨してくれただろうが、当時は構図がよく分からなかったこともあり、私はもっぱらN氏の愚痴の聞き役だった。
そうして私は支局から本社に戻り、N氏ともご無沙汰していたので、事故には驚いた。報道ははじめ匿名だったので、自分が誰かの連絡でN氏だと知ったのかどうか、記憶にない。
乗客の男性が行方不明なので、県警ヘリが鹿児島市の谷山ヘリポートから鹿児島中央署員20人を乗せて硫黄島へ出発し、地元の消防団員と協力して捜索した。
事故の翌々日(11月8日)朝、N氏は硫黄島の湾内から遺体で発見された。
滑走路の一方の端は、防風林が20メートルほど続いたあと切り立った崖となっており、ここから海に転落していた。
死因は頭がい骨粉砕骨折による脳挫傷。
死後約48時間経過していたことから、飛行機墜落後まもなく転落したらしい。
当時は自殺なのか、足を踏み外した事故なのかはっきりしなかったが、最終的には自殺と断定されたようだ。
N氏は、航行中の航空機を墜落させたとして、「航空の危険を生じさせる行為等の処罰に関する法律」違反の疑いで、被疑者死亡のまま書類送検された。
今急冷は翌年1月、再び無投票当選した。
大スキャンダル④ ― 2026/06/25
平成9年版の『航空事故調査委員会事務局報』(社団法人・日本航空機操縦士協会)を入手して事故を確認したが、殘念ながらこの時点ではまだ、平成9年11月6日、薩摩硫黄島飛行場で、東和航空(株)のJA4053セスナ式172P型が、離陸直後、飛行場の滑走路側オーバーラン脇に墜落したというだけで、人員の死傷等もなし(!)という簡単なものだった。
そこでAIに聞いてみると、正確にうまくまとめてくれた。
平成9年(1997年)11月6日に薩摩硫黄島飛行場で発生した、東和航空所属のセスナ172P(登録記号:JA4053)の墜落事故について、運輸安全委員会(当時の航空事故調査委員会)の報告書などの資料をもとに詳細をまとめました。
この事故は、一般的な機体の不具合や気象条件によるものではなく、「乗客の意図的な妨害行動(自殺)」という、航空事故の中でも極めて異例かつ衝撃的な原因によって引き起こされたものです。
事故の概要
発生日時 平成9年(1997年)11月6日 12時02分ごろ
発生場所 鹿児島県三島村 薩摩硫黄島飛行場 滑走路18側オーバーラン脇
運航会社 東和航空株式会社(不定期航空運送事業のチャーター便)
使用機材 セスナ式172P型(登録記号:JA4053)
搭乗者 機長1名、乗客1名(計2名)
被害状況 機体は大破(火災はなし)。機長・乗客ともに墜落による死傷はなし(※後述)。
事故当日の経過と墜落の瞬間
1. 硫黄島への到着
事故機は当日午前、枕崎飛行場(のちの枕崎空港)で遊覧飛行を3回行った後、チャーター飛行のため機長のみが搭乗して11時30分に枕崎を離陸、11時50分に薩摩硫黄島飛行場に着陸しました。
2. 離陸と異変
島から枕崎へ戻るため、右操縦席(セスナ機は副操縦席側にも操縦桿やペダルが連動して設置されています)に乗客を乗せ、12時01分ごろに滑走路36から離陸を開始しました。機体は滑走路中央の手前付近で正常に浮揚し、順調に上昇を始めました。
3. 操縦桿の押し下げ
滑走路中央付近で高度約25〜30メートルに達したその時、右席の乗客が突然身を乗り出し、両手で操縦桿を握り、身体全体の体重をかけて前方に激しく押し下げてきました。機首は急激に下を向き、滑走路面が目の前に迫る状態になりました。機長は慌てて操縦桿を引き戻し、機体を立て直そうと必死に抵抗しましたが、乗客が強い力で操縦桿を押し下げ続けたため、機体は完全に操縦不能(コントロールを喪失した状態)に陥りました。
4. 墜落
制御を失った機体は西側に流されながら、滑走路18側のオーバーラン(滑走路末端の先にある敷地)脇の緑地帯に墜落、大破しました。幸いにも燃料への引火による火災は発生せず、衝撃の割に機長・乗客ともにこの時点での大きな怪我はありませんでした。
事故の真相と背後関係
墜落直後、機体は大破したものの命に別条のなかった乗客は、混乱する現場からそのまま行方をくらましました。その後、警察や関係者による捜索が行われましたが、後日、飛行場近くの海中からこの乗客の遺体が発見されました。その後の捜査により、この乗客は「セスナ機を道連れにした航空機自殺」を図ったものと断定されました。
運輸安全委員会の報告書(原因)
「本事故は、同機が離陸直後、右操縦席に搭乗した乗客の操縦桿を押し下げる異常な行動により、機体が操縦不能に陥ったため、墜落したことによるものと推定される。」
分類:SECURITY RELATED(セキュリティ関連事案)
小型のセスナ機は構造上、右側の座席(本来は副操縦席)にも完全に連動した操縦装置があるため、乗客がひとたび強い力で操縦桿を操作してしまうと、左席の機長一人の力だけでそれを力ずくで抑え込み、リカバリーすることは物理的に非常に困難です。チャーター便という密室、かつ離陸直後の低高度という一瞬の隙を突いた悲劇的な事件でした。
(以上)
AIに作成させたが、公表資料を基にまとめたものなので、これが公的な結論だと考えて間違いない。
「極めて異例かつ衝撃的な原因」による航空事故。それは「セスナ機を道連れにした航空機自殺」だった。
死亡したのは私もよく知るN氏だった。市長選出馬の意向は知っていたが、なんと決起集会を2日後に控えていたという。「自殺」の動機は謎に包まれている。
そこでAIに聞いてみると、正確にうまくまとめてくれた。
平成9年(1997年)11月6日に薩摩硫黄島飛行場で発生した、東和航空所属のセスナ172P(登録記号:JA4053)の墜落事故について、運輸安全委員会(当時の航空事故調査委員会)の報告書などの資料をもとに詳細をまとめました。
この事故は、一般的な機体の不具合や気象条件によるものではなく、「乗客の意図的な妨害行動(自殺)」という、航空事故の中でも極めて異例かつ衝撃的な原因によって引き起こされたものです。
事故の概要
発生日時 平成9年(1997年)11月6日 12時02分ごろ
発生場所 鹿児島県三島村 薩摩硫黄島飛行場 滑走路18側オーバーラン脇
運航会社 東和航空株式会社(不定期航空運送事業のチャーター便)
使用機材 セスナ式172P型(登録記号:JA4053)
搭乗者 機長1名、乗客1名(計2名)
被害状況 機体は大破(火災はなし)。機長・乗客ともに墜落による死傷はなし(※後述)。
事故当日の経過と墜落の瞬間
1. 硫黄島への到着
事故機は当日午前、枕崎飛行場(のちの枕崎空港)で遊覧飛行を3回行った後、チャーター飛行のため機長のみが搭乗して11時30分に枕崎を離陸、11時50分に薩摩硫黄島飛行場に着陸しました。
2. 離陸と異変
島から枕崎へ戻るため、右操縦席(セスナ機は副操縦席側にも操縦桿やペダルが連動して設置されています)に乗客を乗せ、12時01分ごろに滑走路36から離陸を開始しました。機体は滑走路中央の手前付近で正常に浮揚し、順調に上昇を始めました。
3. 操縦桿の押し下げ
滑走路中央付近で高度約25〜30メートルに達したその時、右席の乗客が突然身を乗り出し、両手で操縦桿を握り、身体全体の体重をかけて前方に激しく押し下げてきました。機首は急激に下を向き、滑走路面が目の前に迫る状態になりました。機長は慌てて操縦桿を引き戻し、機体を立て直そうと必死に抵抗しましたが、乗客が強い力で操縦桿を押し下げ続けたため、機体は完全に操縦不能(コントロールを喪失した状態)に陥りました。
4. 墜落
制御を失った機体は西側に流されながら、滑走路18側のオーバーラン(滑走路末端の先にある敷地)脇の緑地帯に墜落、大破しました。幸いにも燃料への引火による火災は発生せず、衝撃の割に機長・乗客ともにこの時点での大きな怪我はありませんでした。
事故の真相と背後関係
墜落直後、機体は大破したものの命に別条のなかった乗客は、混乱する現場からそのまま行方をくらましました。その後、警察や関係者による捜索が行われましたが、後日、飛行場近くの海中からこの乗客の遺体が発見されました。その後の捜査により、この乗客は「セスナ機を道連れにした航空機自殺」を図ったものと断定されました。
運輸安全委員会の報告書(原因)
「本事故は、同機が離陸直後、右操縦席に搭乗した乗客の操縦桿を押し下げる異常な行動により、機体が操縦不能に陥ったため、墜落したことによるものと推定される。」
分類:SECURITY RELATED(セキュリティ関連事案)
小型のセスナ機は構造上、右側の座席(本来は副操縦席)にも完全に連動した操縦装置があるため、乗客がひとたび強い力で操縦桿を操作してしまうと、左席の機長一人の力だけでそれを力ずくで抑え込み、リカバリーすることは物理的に非常に困難です。チャーター便という密室、かつ離陸直後の低高度という一瞬の隙を突いた悲劇的な事件でした。
(以上)
AIに作成させたが、公表資料を基にまとめたものなので、これが公的な結論だと考えて間違いない。
「極めて異例かつ衝撃的な原因」による航空事故。それは「セスナ機を道連れにした航空機自殺」だった。
死亡したのは私もよく知るN氏だった。市長選出馬の意向は知っていたが、なんと決起集会を2日後に控えていたという。「自殺」の動機は謎に包まれている。
大スキャンダル③ ― 2026/06/25
不可解なセスナ機の墜落事故。
当時の新聞コピーを鹿児島県立図書館から取り寄せたが、レファレンス係の見落としで南日本新聞6日付夕刊の一報は送られてこなかった。
2年後(2019年8月)またあらためて取り寄せた南日本新聞6日付夕刊3面(社会面)がこれだ。クリックすれば拡大できる。
紙面の中央(腹という)に5段見出しで突っ込んでいる。
何しろ「正午ごろ」の発生だ。
夕刊1面・社会面は原稿〆切の時間である。
降版(印刷に回す)は午後1時だ。
発生をキャッチしてから取材し原稿を書くにはギリギリだ。
これが間に合ったのは支局のキャッチが速かったからだろう。
記事を見ると分かるが、これは警察情報ではない。
発生後、三島村営硫黄島飛行場から枕崎空港に連絡があり、常駐している枕崎市企画調整課空港係がすぐに枕崎支局に一報を伝えてくれたとしか考えられない。
事件事故の原稿も、原則、現地の支局が書かねばならない。
本社の社会部も手伝ってはくれる。
この場合、そもそも三島村は本社の管轄なので、三島村には社会部が聞き、枕崎支局が枕崎市から得て書いた記事とまとめて夕刊に突っ込んだという形だ。
5段見出しをわずか23行の記事で支えるために、全く関係ない日米共同訓練の写真をそれらしく抱き込んでいる。よくやる手法だ。
こうして正午ごろに発生した事故を夕刊に突っ込んだ。
あっぱれ、というべきだろうか。
私としては、枕崎支局と枕崎市との余りにスムーズな連携に引っかかりを覚えないではいられない。
スムーズ過ぎるのだ。
支局はあらかじめ事故を知っていた?
そんなことはあり得ないはずだ。
だが、乗客のN氏は明らかに精神的におかしくなっていた。そのことを考えれば、搭乗前に支局に予告?の電話をしてきたなんてことも想像してしまう。憶測に過ぎないだろうか?
当時の新聞コピーを鹿児島県立図書館から取り寄せたが、レファレンス係の見落としで南日本新聞6日付夕刊の一報は送られてこなかった。
2年後(2019年8月)またあらためて取り寄せた南日本新聞6日付夕刊3面(社会面)がこれだ。クリックすれば拡大できる。
紙面の中央(腹という)に5段見出しで突っ込んでいる。
何しろ「正午ごろ」の発生だ。
夕刊1面・社会面は原稿〆切の時間である。
降版(印刷に回す)は午後1時だ。
発生をキャッチしてから取材し原稿を書くにはギリギリだ。
これが間に合ったのは支局のキャッチが速かったからだろう。
記事を見ると分かるが、これは警察情報ではない。
発生後、三島村営硫黄島飛行場から枕崎空港に連絡があり、常駐している枕崎市企画調整課空港係がすぐに枕崎支局に一報を伝えてくれたとしか考えられない。
事件事故の原稿も、原則、現地の支局が書かねばならない。
本社の社会部も手伝ってはくれる。
この場合、そもそも三島村は本社の管轄なので、三島村には社会部が聞き、枕崎支局が枕崎市から得て書いた記事とまとめて夕刊に突っ込んだという形だ。
5段見出しをわずか23行の記事で支えるために、全く関係ない日米共同訓練の写真をそれらしく抱き込んでいる。よくやる手法だ。
こうして正午ごろに発生した事故を夕刊に突っ込んだ。
あっぱれ、というべきだろうか。
私としては、枕崎支局と枕崎市との余りにスムーズな連携に引っかかりを覚えないではいられない。
スムーズ過ぎるのだ。
支局はあらかじめ事故を知っていた?
そんなことはあり得ないはずだ。
だが、乗客のN氏は明らかに精神的におかしくなっていた。そのことを考えれば、搭乗前に支局に予告?の電話をしてきたなんてことも想像してしまう。憶測に過ぎないだろうか?
大スキャンダル(続き) ― 2026/06/16
今急冷市長がどうしても地元紙の支局長をかつての部下にしたかったのは、市長選を間近に控えていたからだ。
私が去って、毛脇が赴任したその年、さらなる大スキャンダルが起こる。
市長選の対立候補が、飛行機事故の末、滑走路から転落死したのである。
↓
https://restart.asablo.jp/blog/2017/08/25/8656368
それは実に不可解な事件だった。
私が去って、毛脇が赴任したその年、さらなる大スキャンダルが起こる。
市長選の対立候補が、飛行機事故の末、滑走路から転落死したのである。
↓
https://restart.asablo.jp/blog/2017/08/25/8656368
それは実に不可解な事件だった。
大スキャンダルの構図がはっきり見えてきた ― 2026/06/06
30年前、新聞社の枕崎支局にいた時、自分が遭遇したのが大スキャンダルだったのだと気づいてから10年。
↓
https://restart.asablo.jp/blog/2017/08/22/8653213
30年前かーと言うなかれ、これが現体制にも繋がる話なのだ。
構図がはっきり見えてきた。
当時の枕崎市長は今急冷という御仁だった。
東京のサンケイリビング新聞社で編成局長をしていたのだが、故郷の市長選に出るために退職して出馬、当選したのだった。
退職する時になぜか部下の毛脇という男も一緒に辞めて、故郷の新聞社に中途採用で入った(現社長)。
今急冷はかつての部下だった毛脇に枕崎支局長になってほしくて、新聞社の社長の拾田に猛烈に現支局長の私を誹謗中傷し始めた。
今急冷と拾田は鹿児島大学の先輩後輩だった。
「今の支局長はちっとも仕事をしない。人間も最悪だ。早く毛脇と交代させろ」
拾田社長は、人をいじめるのが大好きな社会部の汚元部長や蟻川デスクに目を付け、枕崎支局長は市長に嫌われている、何とかしろと焚き付けた。
汚元も蟻川も短絡的単細胞だから即その話に飛びついて現支局長をいびり始める。
私が仕事をしていなかったなど、トンデモナイ。嘘だという証拠がある。
新聞社には紙面審査委員会というのがあって、毎週、二階堂さんという委員長の下で全紙面を見て記事を講評していた。
委員会で出た意見はペーパーにして編集局内はもちろん、支局にも回ってきていた。
そこで二階堂さんはいつも私の記事を褒めていたのである。
おこがましいが、これは事実だ。
枕崎支局の当時のスクラップ帳を見てもらうといい。一つ一つの講評が貼り付けてあるはずだ。励みになっていたからだ。
こんなこともあった。
鹿児島新報は枕崎支局がなく、加世田支局が枕崎をカバーしていたが、私の記事を丸写しにして載せるのである。
ネタをパクるというレベルじゃない。本当にそのまま丸写しするのである。
自分で恥ずかしくなってそのうちやめるだろうと思っていたら、1年ほども続いたろうか。
新報という三流新聞はそういう恥知らずなところがあった。
しかしながら、汚元と蟻川のパワハラはずっと続いた。
(当時パワハラという言葉はまだなかったから、とことんいじめ抜かれた、って感じかな)
そして春の支局長会議の後、編集局長に話があると言われた。
何事かと思えば、「君は市長とはうまくいっているのか? 嫌なら本社に帰ってきていいぞ。どうする?」と迫られた。
支局は3年が任期。あと1年あった。
市長が私を交代させたいと言っている? そして本社はそれを撥ね付けるのではなく、はい、そうですかと聞き入れたというのか?
大変なショックを受けたが、帰らせてくださいというのも屈辱だ。もう1年やりたいと伝えた。
そうして嫌な1年を過ごした後、交代でやってきたのは毛脇だった。
普通、中途入社数年で支局長にはなれない。私は入社12年で支局長になった。それが普通だ。
こんなことが許されるのか。これが現社長だ。
毛脇はもちろん事情を百も承知でやって来たのだろうが、当時そんなことはおくびにも出さなかった。私は何も気づかなかった。
私は自分がなぜパワハラされるのか分からず一人苦しんでいた(死まで考えた)が、実は市長が自分の子飼いの部下をイエスマンの支局長にしたかったというのが真相だったのだ。
この真相を知るのは今はもう現社長だけだろう。
いや、30年前の枕崎を知る住民はまだ結構いるはずだ。話を聞いてみたい。コメントお願いします。
(コメントは私が読んでから公開しますので、非公開希望の方はその旨お書き下さい)
↓
https://restart.asablo.jp/blog/2017/08/22/8653213
30年前かーと言うなかれ、これが現体制にも繋がる話なのだ。
構図がはっきり見えてきた。
当時の枕崎市長は今急冷という御仁だった。
東京のサンケイリビング新聞社で編成局長をしていたのだが、故郷の市長選に出るために退職して出馬、当選したのだった。
退職する時になぜか部下の毛脇という男も一緒に辞めて、故郷の新聞社に中途採用で入った(現社長)。
今急冷はかつての部下だった毛脇に枕崎支局長になってほしくて、新聞社の社長の拾田に猛烈に現支局長の私を誹謗中傷し始めた。
今急冷と拾田は鹿児島大学の先輩後輩だった。
「今の支局長はちっとも仕事をしない。人間も最悪だ。早く毛脇と交代させろ」
拾田社長は、人をいじめるのが大好きな社会部の汚元部長や蟻川デスクに目を付け、枕崎支局長は市長に嫌われている、何とかしろと焚き付けた。
汚元も蟻川も短絡的単細胞だから即その話に飛びついて現支局長をいびり始める。
私が仕事をしていなかったなど、トンデモナイ。嘘だという証拠がある。
新聞社には紙面審査委員会というのがあって、毎週、二階堂さんという委員長の下で全紙面を見て記事を講評していた。
委員会で出た意見はペーパーにして編集局内はもちろん、支局にも回ってきていた。
そこで二階堂さんはいつも私の記事を褒めていたのである。
おこがましいが、これは事実だ。
枕崎支局の当時のスクラップ帳を見てもらうといい。一つ一つの講評が貼り付けてあるはずだ。励みになっていたからだ。
こんなこともあった。
鹿児島新報は枕崎支局がなく、加世田支局が枕崎をカバーしていたが、私の記事を丸写しにして載せるのである。
ネタをパクるというレベルじゃない。本当にそのまま丸写しするのである。
自分で恥ずかしくなってそのうちやめるだろうと思っていたら、1年ほども続いたろうか。
新報という三流新聞はそういう恥知らずなところがあった。
しかしながら、汚元と蟻川のパワハラはずっと続いた。
(当時パワハラという言葉はまだなかったから、とことんいじめ抜かれた、って感じかな)
そして春の支局長会議の後、編集局長に話があると言われた。
何事かと思えば、「君は市長とはうまくいっているのか? 嫌なら本社に帰ってきていいぞ。どうする?」と迫られた。
支局は3年が任期。あと1年あった。
市長が私を交代させたいと言っている? そして本社はそれを撥ね付けるのではなく、はい、そうですかと聞き入れたというのか?
大変なショックを受けたが、帰らせてくださいというのも屈辱だ。もう1年やりたいと伝えた。
そうして嫌な1年を過ごした後、交代でやってきたのは毛脇だった。
普通、中途入社数年で支局長にはなれない。私は入社12年で支局長になった。それが普通だ。
こんなことが許されるのか。これが現社長だ。
毛脇はもちろん事情を百も承知でやって来たのだろうが、当時そんなことはおくびにも出さなかった。私は何も気づかなかった。
私は自分がなぜパワハラされるのか分からず一人苦しんでいた(死まで考えた)が、実は市長が自分の子飼いの部下をイエスマンの支局長にしたかったというのが真相だったのだ。
この真相を知るのは今はもう現社長だけだろう。
いや、30年前の枕崎を知る住民はまだ結構いるはずだ。話を聞いてみたい。コメントお願いします。
(コメントは私が読んでから公開しますので、非公開希望の方はその旨お書き下さい)

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