電子書籍を公開しました!2024/04/23

『城山崩壊』

オドケンとトリキョウの新聞記者同期コンビが難事件を解決する!

鹿児島県霧島市の花丸製菓が倒産した。負債総額は800億円超。同じ日の午後、突然、鹿児島市は未曽有の豪雨になる。中心部の城山が崩れ、花村製菓の常務宅が埋まる。倒産の当日、鍵を握る財務担当重役が崖崩れで死ぬとは!不思議だが、天災だ。偶然としか言いようがない。家を寸前で飛び出し、難を逃れた同社社長秘書の地頭園は大学で地質学を学んでおり、前年も崩れた城山の危ない状態は分かっていたはず。南国日日新聞記者の踊橋健一と鳥原恭子の同期コンビは、「崖崩れで人を殺せるか」と推理を展開するが次々と覆されていく。

330円ですので、お気軽にどうぞ💛
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1986年の世界2024/02/05

今、第2回までやってるドラマ「不適切にもほどがある」は、昭和61年(1986年)と現在(2024年)を行ったり来たりする。

昭和61年といえば、3月に息子が生まれた。
(今年もう38歳だ!)

私は28歳だった(12月に29歳となる)。
鹿児島市易居町の新聞社(旧社屋)の社会部記者だった。

1年目は市政担当で、2年目の途中から遊軍に抜擢された。
この年4月から3年目となり、まあ脂が乗っていた時代だったと言っていい。

ドラマを見ていて、そうだったかな?と思うところもあるが、本当にみんな煙草を吸っていた。
各自の机にはアルミの灰皿があって、吸い殻で一杯だった。

机にはパソコンはもちろんワープロもなかった。すべて紙だった。
スマホどころか携帯もない世界。
ネットもないし、検索などできない。

週休1日だった。週休2日になったのはいつだっけなあ。
けっこう週休1日が長かった気がする。
今のサラリーマンは休みが多すぎると思う。

ドラマが始まる前から、昭和63年の文化部時代をよく思い出しているところだった。
後輩の女子社員がいつも私をじっと見つめていた。

そんなこんなで懐かしくドラマを見ている。
久しぶりに宮藤官九郎の脚本を楽しんでいる。
多様性が大事だと言いながら、旧来の常識を認めない今の社会を皮肉るエンターテインメント。さすがだ。

それにしても1970年生まれの宮藤官九郎は、1986年には高校生。
その頃の女子高生はあんなに淫らだったのだろうか。
私の感覚とは違う。そこだけは。

いや、そういえば、友人の親戚の男(けっこう年下)がマクドナルドで大学時代アルバイトしていて、店のバイトの女子高生らと簡単にやりまくっていたと話していたのはあの頃のことではなかったか。
作り話だと思って聞いていた(だってちっともカッコ良くない太り気味の男だ)が、嘘じゃなかったんだな…クドカンもそういう〝恩恵〟にあずかっていたのか…

結局、人は死ぬ2024/01/05

結局、人は死ぬのだ。
私の人生に暗い影を落とした人も、いつかは必ず死ぬ。


https://restart.asablo.jp/blog/2017/08/24/8654768


https://373news.com/_news/storyid/188026/?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter


私もあと20年だ。
まずはこれから10年で何を成すかだ。

やっぱりマスコミは自社の不祥事に甘い2023/12/20

ENEOSの社長がセクハラとか、福岡県の宮若市長がパワハラとか、ニュースで叩かれているのを見て、やっぱりマスコミは自身の不祥事には甘いなと思う。

私の2歳ほど下の男が、取材部のデスクの時に部下の女性にセクハラしたことが発覚したことがある。

その男は女性をよく仕事のことで𠮟りつけていたらしいが、あろうことか、叱責したあとホテルに誘ったという悪質なものだった。
女性の訴えはもっと深刻だったかもしれないが、詳細は知らない。
当時は今と違ってまだまだ男の側に甘い時代だったし、本人も口の達者な男だったので、処分は局間異動になっただけだった。

しかし、私は隣の文化部デスクをしていて、そいつが実際に部下の男の胸ぐらをつかんでいるのを目撃したことがある。

このブログでも書いてきたように、私も社内でいろいろと嫌がらせを受けたが、胸ぐらをつかまれるなんて物理的・直接的な暴力を受けたことはない。

もちろん私は誰にも告げ口はしなかったが、そいつがハラスメント体質だったのは確かだ。小男なんだけどね。

そいつはしばらく他局にいたものの、いつしか編集局に戻ってきて、最後は局次長クラスで定年となり、今でもキャリアスタッフとして働いているようだから、いい会社である。
小心者には真似のできない面の皮だ。

荒涼たる九大箱崎キャンパス2023/12/13

九州大学の箱崎キャンパスに初めて行ってみた。

九大といえば、高校時代、先生から「受けろー、受けろー」とうるさく言われたものだが、それへの反発もあって、全く眼中になかった。
鶴丸高校としては、全国の高校相手には東大合格者数や国立大医学部合格者数が重要だったが、九州内や同じ鹿児島市内の高校に対しては九大合格者数でも負けてはならなかったのである。
なにしろ百人は送り込まないと勝てないのだ。

しかし、そんなのは先生や学校の勝手である。
生徒にとっては勝手に人生の進路を決められるという、全くもって迷惑な話だ。
進路指導なんてものはなかったに等しい。
とにかく勉強のできる者から順に、東大、国立大医学部を強制的に勧められ、そこに達しないグループには九大を受けさせる。そこにも届かない者は関心の外だ。

3年の時の担任の東憲治先生に、京都大学を受けると言っても許してもらえず、じゃあ一橋!いやダメってわけで、願書提出期限までなかなか決まらなかった。
とうとう私も訳が分からなくなって、やけのやんぱちで名古屋大学にすると言った。
名大も一流大学ではあるが、鶴丸から受ける者などいない。
どうしても九大がイヤだったのだ。それだけだった。

ところが、東先生もこんにゃろー勝手にしろと思ったのか、なんと許しが出た。

この先生には遺恨があった。
夏頃だったか、夜中、近くの同級生の家に4人ほど集まって、ウイスキーをかっくらった。
飲み方を知らないから、コップにそのまま注いで生(き)で一気飲みだ。
翌日、3人は何食わぬ顔で登校したが、1人が二日酔いで欠席した。
しかもあろうことか、そいつは一緒に飲んだメンバーをばらした。
私は階段の踊り場で東にビンタを食らった。

まあ、これは自分らが悪いから仕方がないが、もう一つは許せない。

帰りのバスで居眠りして、開いていた窓から帽子を落としてしまった。
慌てて次のバス停で降りて探したが、見つからなかった。
翌朝、帽子なしで登校すると、服装に目を光らせていた東はすぐ「帽子はどうした」と聞いた。
「なくしました」
「新しいのを買いなさい」
(え⁉)
もう3年生の3学期である。入試等もあって、学校に行くのはわずかだ。
それなのに新品を買えと言う。母にお金をもらうのも申し訳ない。
こういうとき私は悲しいかな、うまくアドリブで口ごたえができない。
結局、新しい帽子を買い、わずか数回だけ学校にかぶっていった。

帽子を落とした私は、名大も落ちた。
入試は見たこともない問題ばかりだった。
入試問題にここまで地域性があるとは想像もしていなかった。
だから鶴丸では九大の過去問ばかりやらされたのだ。
あるいは東京の大学を受ける者が多いので、そういう傾向と対策も。
だから早稲田の試験では、見たこともない問題が並ぶようなことはなかった。
東先生も私が痛い目に遭うことは分かっていただろう。

今でも思う。
希望は通らず、受けたくもない名大を受ける必要があったのか(しかも落ちた)。
先生にそんな権利があるのか。

東先生はその後、鶴丸の校長になった。まあ順当な出世かもしれないが、本人は教育長を狙っていたと私はにらんでいる…。

まあ、それやこれやの九大である。


目的は九州大学総合研究博物館である。
九大の本体は糸島に移転したと仄聞していたものの、跡地の箱崎キャンパスがこんなに荒涼としているとは驚いた。
旧工学部本館がぽつんと残されて博物館になっているのだ。
中に入ってみる。


ほかに見学者もなく、しんとした中にアンモナイトの化石から始まって、いろんな遺物が無造作に置いてある。
さすが、箱崎にあった110年の歴史が迫ってきて迫力がある。
夢野久作のドグラ・マグラの世界だ。
1、2、3階とたっぷりたんのうした。
もっとも人骨の部屋とかは恐ろしくてドアを開ける勇気はなかったが。

九大総合研究博物館は令和9(2027)年度にリニューアルオープンするそうだ。
このおびただしいお宝を死蔵させておく手はない。
私も微力ながら関わりたいと思っている。

あんなに逃げ回っていた九大と、50年近く後に縁ができそうだ。
それもまた人生だろう。

今日のひとこと(歌舞伎)2023/10/26

神田伯山

「歌舞伎ってサ、正直サ、眠くなる時あんじゃん。眠気との戦いみたいなところもあるじゃん、歌舞伎って」

~ラジコで「問わず語りの神田伯山」~

これ聴いてうれしかったねー。
実は歌舞伎で爆睡したことあって、恥ずかしくて誰にも言ったことなかった。

もう20年くらい前の話だけど、鹿児島で。

まだ歌舞伎ってろくに見たことなくて。
すると本に、歌舞伎が初めての人は襲名披露公演に行くといいって書いてあったのよ。
その理由は忘れたんだけど…。

そしたら鹿児島で、誰かの(それも忘れた)襲名披露公演があったのよ。
張り切って午前と午後の2回、チケットを取った。同じ中身なのに。
何しろ歌舞伎初めてだから2回くらい見ないと分かんないだろうと思って。

その頃、新聞社の文化部のデスクで、忙しくって忙しくって、ろくに休んでなかったんで、たまには息抜き・気晴らししようと思って、その日は休みを取って行ったんだ。

まず午前。公演が始まって間もなく眠くなって、いつの間にか前後不覚に。
そのときは割と後方の席だったんで、あんまり恥ずかしくなかったんだけど、午後はすごく前のいい席が取れていたんで、今度はしっかり見るぞと気合を入れた。

午後の幕が上がって、芝居が始まるとすぐに携帯がぶるぶる震えた。

その頃の携帯って、今みたいにドライブモードや機内モードなんてなくて、マナーモード(バイブ)しかなかったのよ。
で、電源切ってればよかったんだけど、マナーモードにしてた。

始めは無視しようと思ったんだけど、何度も何度もぶるぶる鳴るわけ。
そうなると、一応、デスクという責任ある立場にいるから、何か緊急事態かもしれないと思うじゃん。
役者にも近くの人にも悪かったけど、小さくすみません、すみませんと、会場の外に出たわけ。

折り返し電話してみると、相手は整理部長でさ、これがチビでハゲの男で、「別に急ぎじゃなかったんだけど、明日でもよかったんだけど」って用事でさ、腹が立って腹が立って、でも文句の一つも言えなくて。

しかもこのチビハゲは家に電話して私の携帯番号を聞いてるわけ。
うちの妻は私が会社を休んで歌舞伎に行ってるなんて知らないのよ。
妻からも疑われて、しどろもどろの言い訳。
席に戻ろうとしたら、芝居の途中では入れませんと止められるし。
もう見る気も失せて帰ったよ。

これが歌舞伎の初体験。
その後、もちろん歌舞伎には行っていない。
この嫌な思い出によって歌舞伎とは縁がないと結論付けたからだ。

「第五富士」倒産に思う2023/09/29

南日本新聞社がパチンコ屋「第五富士」から土地を購入して移転した話を読みたい方は、申し訳ありませんが、バックナンバーから2017年8月24日付「南日本新聞の〝9・11〟」という記事を見つけて読んでください。(ググればより簡単です)
再掲はしません。