女性皇族の婚姻後は、皇族と国民との中間的な存在2026/07/17

今日成立した新皇室典範で「女性皇族が結婚後も皇族身分を保持する」は確かに保守派には危険に見える。

しかしながら、「婚姻後の女性皇族は一般皇族と異なり、住民基本台帳に記録される」という規定がある。
皇族なのに一般国民と同じ?
不思議な身分があったものだ。
こんな不安定な扱いはもちろんこの方限り(一代限り)ということだろう。
つまり、この方の配偶者や子が皇族とならないよう、ちゃんと楔を打ち込んでいるのだ!そう解釈したい。
この規定をこっそり?潜ませた人はグッジョブだ。

これを新聞掲載の皇室典範改正全文で確認しようとしたが、削除や挿入ばかり書いてあって改正後の条文になってないから検討しようがなかった。

産経さん、皇室典範改正の解説を連載でお願いします。

万世一系――崇徳院を諌めた西行2026/07/10

皇室典範改正論議で、皇族の養子となった男系男子の子供が皇位継承権を持つことを問題視する愚か者がいる。
そもそもそれが目的の改正なのだから、バカすぎてどうしようもない。

そういう輩のことを上田秋成は『雨月物語』の中で、「末の世に神孫を奪ふて罪なしといふ敵(あた)」と言っている。

『雨月物語』の第一話「白峯」だ。
皇位継承への不満から後白河天皇に対して保元の乱を起こし、敗れて讃岐に流された崇徳院に対して、西行(歌人で法師)が説き伏せる言葉が素晴らしい。

我国は天照すおほん神の開闢(はつくに)しろしめしゝより、日嗣(ひつぎ)の大王(きみ)絶る事なきを、かく口賢しきをしへ(注=孟子の言う易姓革命)を伝へなば、末の世に神孫を奪ふて罪なしといふ敵も出べしと、八百よろづの神の悪(にく)ませ給ふて、神風を起して船を覆し給ふと聞(きく)。

『孟子』を積んだ船は必ず暴風に遭って沈没した。そのために『孟子』だけは日本に伝わらなかったという。『孟子』の言う、易姓革命や湯武放伐の考え方はそれほど日本とは相容れないものなのだ。
現代で言えば、共産主義者や左翼リベラルたちの主義主張は全く日本の国体にそぐわず、日本から排除すべき連中だということだ。

皇室毀損罪を制定しよう2026/05/31

女性誌や毎日・朝日新聞、Xでの発信など、女性天皇を待望するかのような言説が平気でまかり通っている。

皇室典範第1条に「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と定められている。
そして日本国憲法第二条は、皇位継承は皇室典範によってのみ行われると明記している。

これに反する主張を公に広める者は処罰すべきだ。
もうこれ以上は許されない。目に余る。

国旗毀損罪の次は、皇室毀損罪を制定しよう。

アイヌ論議がまた盛んだが…2026/04/11

3年前に「アイヌは先住民族ではない」という記事を書いているので、興味がある方は読んでください。

https://restart.asablo.jp/blog/2023/01/26/9558319

国立戦争博物館を!2025/12/10

イギリスには5か所も王立の戦争博物館があるという。

ロンドンに帝国戦争博物館、軽巡洋艦ベルファスト、チャーチル博物館。
そしてダックスフォードにダックスフォード帝国戦争博物館、マンチェスターに北帝国戦争博物館がある。

翻って東京国立近代美術館には戦争画(作戦記録画)が153点もありながら、一部を入れ替えで見られるだけで、一括公開はされていない。

国立戦争博物館を独立させて開設すべきだろう。
併せて国内に分散している戦争画を収集するようにする。

自維連立合意と吉田松陰2025/10/22

日本維新の会の藤田共同代表は、高市自民党総裁との連立合意の最終段階で、吉田松陰の言葉「狂愚誠に愛すべし、才良誠に恐るべし。諸君、狂いたまえ」を踏まえて、「高市さん狂って下さい。これからあらゆる抵抗があります。それを押し切って日本の大改革のためにはある種の狂気が必要です。そのために私たちは国民に覚悟を示すんです」と迫ったという。
高市総裁は「わかった! やるかっ!」と応じたそうだ。

維新の会の「維新」が、吉田松陰の精神を踏まえているのだとは初めて知った。

長州藩士の吉田松陰(1830ー1859年)は、嘉永六年(1853)6月、アメリカ東インド艦隊のペリーが来航すると、さっそく浦賀に行って偵察した。翌安政元年、ペリーが再びやってくると、松陰は下田に行って小舟で軍艦に乗りつけ、同乗つまり密航を頼むが断られる。その間に小舟は流されたため、松陰は米艦のボートに送られて、やむなく自首した。

松陰は下田の獄、江戸の獄、さらに萩の野山の獄へと移された。野山の獄では囚人仲間を相手に孟子の講義を始めた。囚人たちは喜んで、2カ月の講義が終わると、自分たちで輪講を始めた。その一節ごとに松陰が論評を加えて、それを集めたのが有名な『講孟箚記(さつき)』(のち『講孟余話』に改題)である。

『講孟余話』を読んで驚くのは、いきなり孔子・孟子の批判から始まることである。中公クラシックス『講孟余話ほか』の訳で見てみよう。

「経書を読むにあたって、第一に重要なことは、聖賢におもねらないことである。もし少しでもおもねるところがあると、道は明らかにならぬし、学問をしても益なく、かえって有害である。たとえば、聖賢といわれる孔子や孟子のような方も、自分の生まれた国を離れて他国に行き仕官しようとされたが、これはなんとも納得のいかぬことである。(略)自分の主君は暗愚であるからといって自国を去り、他国に行って新しい主君に仕えようとするのは、ちょうど父親を頑固な愚か者だとして自分の家を飛び出し、隣家の年寄りを父親とするようなものである。孔子や孟子が、この君臣間の本義を誤られたことは、いかようにも弁解の余地のないところである」

湯武放伐についてはどうか。
「ここ(わが国)では、天つ神の血すじを継ぐ御方が、天地とともに永久に無限に統治するのであり、この大八洲(おおやしま)は、天つ神の開きたもうた国で、その御子孫が永く守りたもうものなのである。それゆえに、億兆の人民は、日嗣(ひつぎ)たる天皇と喜憂を同じくして、決して他のことに心をわずらわされてはならない。/ところが一方、征夷大将軍のごときは、天朝から命ぜられたもので、その職に適する者だけその地位にとどまることができる。それゆえ征夷大将軍が足利氏のように、その職をおろそかにした場合には、ただちにこれを廃してもよろしい。この点は、漢土の君主の場合ときわめて類似している。しかしながら湯・武のような人は義によって賊を討ち、これは天の命にもとづいたものだと称している。わが国においてはそうではない。わが国では、輝かしい天朝が天つ神の子孫として天下に君臨しておられるのに、天朝の命を承ることもなく、勝手に将軍の職務怠慢に対してその責任を追及しようとするならば、これはいわゆる『燕を以て燕を伐つ』(注・無道をもって無道を伐つ)ものであり、またいわゆる『春秋に義戦なき』(注・『春秋』には義にかなった戦いは載っていない)ものということになってしまう」(注は『講孟箚記』講談社学術文庫を参考にした)

松陰は安政2年(1855)12月、野山の獄を出され、生家(せいか)杉家に禁錮謹慎となった。松陰の叔父がやっていた松下村塾は次第に松陰が中心となっていく。
同5年、諸外国との通商条約が結ばれると、井伊大老の命で老中間部(まなべ)詮勝(あきかつ)が上京し、反対派を検挙した。松陰は同志と間部要撃をはかるが、これを心配した藩当局は12月、松陰を再び野山の獄に入れた。翌6年5月、幕府は藩に命じて松陰を江戸へ護送せしめ、伝馬町の獄に下し、11月27日死刑に処した。30年の生涯だった。

『歴史認識問題研究』に拙稿掲載2025/10/01

南京大虐殺は日本人なら誰もが知っているが、通州事件はほとんどの人が知らない(私もそうだった)。
逆なんです。嘘の南京大虐殺ではなく、本当にあった通州事件を知るべきなんです。
日本人が「人類史上最悪の虐殺」をやられたんですよ!