豊田有恒さんの訃報が飛び込んできた2023/12/05

卑弥呼の墓はどこか2023/11/02

10月29日、福岡県糸島市の伊都文化会館であったシンポジウム「卑弥呼のクニを探る」に電車で行ってきた。

副題が「検証 邪馬台国畿内説と伊都国」で糸島市と奈良県桜井市・田原本町の三市町共催の取り組みで、先日奈良の飛鳥に行ったこともあり、これは行かねばと腰を上げたのだった。

基調報告を聞いていると、邪馬台国の候補地を考えるにあたって、桜井市の纏向遺跡は具体的な遺構や遺物で論議ができるが、九州説の場合、それがない(少ない)という指摘があり、確かにそうだと思った。
九州説、危うし!

シンポジウムで桜井市立埋文センター所長の橋本輝彦氏は、ずばり面白いことを言った。
「纏向遺跡の担当者は誰も箸墓古墳が卑弥呼の墓だとは思っていない。どうも箸墓の年代は260年以降である。年代的には(同じ纏向遺跡の)勝山古墳が卑弥呼の墓に合う」

さらに台与の墓についても言及があったが、残念ながら「ヒラ何とか」としか聞こえず、地図で見ると「ひ」で始まるのは東田大塚古墳か。
2つの古墳は前方部が長いという共通した特徴があることから、卑弥呼と台与の2人の墓だとみているらしい、



纏向遺跡から出た木製仮面の話が最後の最後に出たので、おまけ。

卑弥呼の墓として圧倒的に有力な平原弥生古墳2023/06/17

吉野ケ里遺跡で未調査だったエリアから石棺墓が見つかり、蓋石が開けられて全国的な注目を浴びたが、副葬品が何も出てこなかったというので評判が悪い。
吉野ケ里=邪馬台国=卑弥呼の墓ではないかという飛躍した期待があったからだ。
結果は、石棺内の全面に赤色顔料が塗られていたというだけだった。

実は、すでに学者の一部が卑弥呼の墓に違いないと考えている遺跡がある。

その発掘調査に携わったのが、最近よく言及している原田大六だ。
原田大六『実在した神話 発掘された「平原弥生古墳」』(1966年)を読んだ。

原田は、亡き師の中山平次郎から受け継いだ、北部九州の弥生墳墓と近畿地方の古墳との連続性を証明しようと取り組んでいた。
そのためには①弥生後期後半の王墓で②割竹形木棺の始まりで③盛土古墳の始まりである――という3条件を満たす遺跡を見つける必要があった。

すると、何たる天の配慮か、1965年、地元糸島市の平原で、鏡が出土したという連絡が入った。
夜、地主の家に駆けつけた原田はわが目を疑った。
巨大な白銅鏡の破片がある。試しに測ってみると直径46センチを超えている。素環頭太刀もある。
弥生後期後半の王墓の副葬品だと直感した。

翌早朝、現場に行って、膝から崩れ落ちるようなショックを受けた。
みかんの苗木を植えるために6本の溝が掘られていた。
しかもよく聞いてみると鏡が出てから2週間もたっているという。
破壊のために調査は長引いた。

しかし、待望の割竹形木棺の跡が出てきた。
弥生文化における初めての割竹形木棺の発見だ。日本最古の割竹形木棺ということでもある。
そして圧倒的な副葬品の質と量だった。




これらがもし今回の吉野ケ里遺跡の石棺から見つかっていたら、世間はひっくり返るような大騒ぎになり、もう卑弥呼の墓に間違いない、ここが邪馬台国だ‼となったことだろう。

しかし、原田大六はそんな主張をしなかった。
「ケンカ大六」と気性の激しさで知られているが、学問には誠実なのだ。
卑弥呼の時代より100年古いため、被葬者は古事記に出てくる玉依姫(たまよりひめ)だとした。
初代神武天皇の母親であり、神名は天照大御神だ。


しかし、50年以上たった今、年代はもっと柔軟に考えられている。
森浩一は1975年に原田大六宅で、原田が磨き上げた鏡の破片を見て驚嘆したという。のちの名著『日本神話の考古学』(1993年)も原田の影響を強く感じさせる著書だが、その中で「(原田の)報告書では、平原古墓の年代は『二世紀中ごろを下るものではない』と弥生時代後期に位置づけられている。私は、弥生後期のなかにおさまるものとみているが、年代はもう半世紀ないし一世紀ほど下がる可能性も考えている」という。
慎重な書き方だが、二世紀中ごろに一世紀を足せば、まさに卑弥呼の時代、三世紀半ばだ。言外に卑弥呼の墓でも構わないと言っているのだ。

今回の吉野ケ里遺跡石棺騒ぎ(たいした騒ぎじゃないが)でもテレビに出てきていた高島忠平氏も2020年に「私は、ずばり、卑弥呼の墓は糸島の平原1号墳であっても構わないと考えています」とシンポジウムで述べている。

原田大六も、原田らしくずばり、平原弥生古墳は卑弥呼の墓だ、と言ってほしかった。もったいなくて、残念に思う。


下は伊都国歴史博物館3階展示室の平原王墓発見状況の原寸大模型


南北九州の交流(奴国)2023/05/15

鹿児島市ふるさと考古歴史館の展示は、最後に不動寺遺跡(同館近く、慈眼寺駅北側)コーナーとなる。

そこで驚いたのは、福岡県春日市の須玖(すく)遺跡群で製作された仿製鏡(国産鏡のこと)2つが出ていることだ(写真左)。

須玖遺跡群といえば、邪馬台国時代の奴国があったところとされる。

また、別の展示(「駅チカ遺跡の落とし物」)になるが、共研公園遺跡では須玖式土器の小型甕棺が出土している(写真右)。

一体、奴国の文物が鹿児島で出るという意味は何なのか。

奴国は北部九州の強大な国だった。
西暦57年には奴国王が後漢に使者を送り、例の「漢委奴国王」の印を受けた。
3世紀の魏志倭人伝でも、戸数2万戸と他国より抜きん出ている。

卑弥呼が景初3年(239)、魏に遣使したときの大使は難升米だが、森浩一さんは難升米とは「奴の升米」であり奴国の王か王族だろうという(『倭人伝を読みなおす』)。

247年に卑弥呼が南の狗奴国と開戦した時には、魏は難升米に檄を与えて奮戦を促した。

奴国の文物を鹿児島まで〝輸出〟していたのは狗奴国との対立以前だろうか、戦争が終結してからだろうか、魏志倭人伝とも関わるので非常に興味深い。

うきは市の西ノ城古墳④2023/02/27

西ノ城古墳は出土物が少なく、年代特定を困難にしている。

仿製鏡(仿とは真似ること。真似て作った鏡)のかけら。

2号主体部(木棺)、3号主体部(石棺)それぞれからガラス玉1個。

あとは土器片である。

それにしても「鏡が出た」というと、必ず「大陸から来たんですか」と質問する人がいるが、日本人(弥生人)は青銅器が伝わるとすぐに自分たちで作り始め、より優れたものにしている(例えば平原遺跡=2世紀=の直径46・5cm、世界最大の内行花文鏡)。

まあ無理もない、学者たちが何でも技術は半島や大陸から来たで済ませているのだから。
古代史にも自虐史観は根強い。

ちなみに現場の職員は、「あ、でも、こちらで作ったものだと思います。近くの大刀洗で鋳型が出てますし」と優しく答えていた。
聞いた男性は「じゃあ、どっちか分からないということね」と、大陸に固執していたが…

うきは市の西ノ城古墳③2023/02/27

岩盤を削って、盛り土しているというのだが、3世紀の人、どうやって岩盤を削ったのだろう。

うきは市の西ノ城古墳②2023/02/27

西ノ城古墳の墳頂には、3つの主体部(墓)がある。

写真左は石棺。石は抜かれていた。
小さいので子供用と思われる。

右は木棺。どこでもそうだが、木は腐って残っていない。

メーンの主体部(中央)はビニールシートが被さっている。
早く、調査して!公開して!

それとも何か、重大な秘密があるのか…

それにしても、耳納連山の中腹、標高170mの丘陵の先端とあって、絶景である。
筑後平野、福岡平野、さらには博多湾まで見渡せるという。
ほんまかいな。