枕崎空港問題の渦中に ― 2017/08/24
「ほぜどん事件」以外にも、枕崎時代は嫌なことが多かった。
それはおいおい書いていくとして、まずは「市長が新聞社の人事に影響力を及ぼした大スキャンダル」について書かねばなるまい。
私が赴任した時、今急冷ヒロシ市長は2期目だった。
その前が田代清英さん(1978年~1990年)という名物市長だった。
アイデアマンで、枕崎空港や南溟館(なんめいかん)という美術館を造った。
枕崎は薩摩半島の南端で、北薩の溝辺にある鹿児島空港が遠い。ならいっそ飛行機で結べば、市民に便利だというのが枕崎空港の発想だ。
1991年(平成3年)1月、国内初の地域空港(コミューター空港)として開港した。
南溟館は昭和62年(1987)度、林野庁のモデル木造施設建設促進事業を使って、枕崎支局にほど近い片平山公園に建設した。
「風の芸術展」という全国公募美術展を開催してきた。
「カツオの町」に文化の風を吹かせたのである。
また、信念の人で、同和と戦った。
確か全国で初めて同和への補助金を打ち切ったか何か、牛の切断した頭を市長の机に置かれても屈しなかったという。
その田代氏が後継に指名したのが今別府だ。
これも一つのアイデアだったのだろう。
サンケイリビング新聞の編成局長だった。
枕崎は「毒の町」だったと表現したが、「コップの中の嵐」で政争の激しいところだ。
誹謗中傷の飛び交う地元から候補を選ぶのは至難で、むしろ長くよそで暮らした〝落下傘候補〟のほうがよかったのだろう。
東京の新聞社の〝編集長〟というので、中央とのパイプを期待されただろうし、今急冷という鹿児島では家柄を感じさせる名字(実際は別の名前)だ。もっとも、金山の鉱夫の家だという人もいる。薩摩藩が芹ヶ野金山から技術者や労働者を移住させて開発した鹿籠(かご)金山というのがあった。
今急冷の就任早々、前市長の手になる枕崎空港が開港するが、私が赴任した1994年当時、最大の政治問題になっていた。
ちなみに1991年 9月、前市長の田代氏は自宅で首つり自殺した。
それはおいおい書いていくとして、まずは「市長が新聞社の人事に影響力を及ぼした大スキャンダル」について書かねばなるまい。
私が赴任した時、今急冷ヒロシ市長は2期目だった。
その前が田代清英さん(1978年~1990年)という名物市長だった。
アイデアマンで、枕崎空港や南溟館(なんめいかん)という美術館を造った。
枕崎は薩摩半島の南端で、北薩の溝辺にある鹿児島空港が遠い。ならいっそ飛行機で結べば、市民に便利だというのが枕崎空港の発想だ。
1991年(平成3年)1月、国内初の地域空港(コミューター空港)として開港した。
南溟館は昭和62年(1987)度、林野庁のモデル木造施設建設促進事業を使って、枕崎支局にほど近い片平山公園に建設した。
「風の芸術展」という全国公募美術展を開催してきた。
「カツオの町」に文化の風を吹かせたのである。
また、信念の人で、同和と戦った。
確か全国で初めて同和への補助金を打ち切ったか何か、牛の切断した頭を市長の机に置かれても屈しなかったという。
その田代氏が後継に指名したのが今別府だ。
これも一つのアイデアだったのだろう。
サンケイリビング新聞の編成局長だった。
枕崎は「毒の町」だったと表現したが、「コップの中の嵐」で政争の激しいところだ。
誹謗中傷の飛び交う地元から候補を選ぶのは至難で、むしろ長くよそで暮らした〝落下傘候補〟のほうがよかったのだろう。
東京の新聞社の〝編集長〟というので、中央とのパイプを期待されただろうし、今急冷という鹿児島では家柄を感じさせる名字(実際は別の名前)だ。もっとも、金山の鉱夫の家だという人もいる。薩摩藩が芹ヶ野金山から技術者や労働者を移住させて開発した鹿籠(かご)金山というのがあった。
今急冷の就任早々、前市長の手になる枕崎空港が開港するが、私が赴任した1994年当時、最大の政治問題になっていた。
ちなみに1991年 9月、前市長の田代氏は自宅で首つり自殺した。
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://restart.asablo.jp/blog/2017/08/24/8654747/tb
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。