朝鮮問題に頭を痛めた西郷さん ― 2017/10/28
維新後、日本政府は隣国朝鮮と国交関係を樹立できていなかった。
それまで窓口だった対馬藩がなくなったわけだから。
ところが、うまくいかない。
国王の父で最高実力者の大院君が極端な攘夷主義者で、開国して西洋化を目指す明治政府を嫌っていた。
事前交渉をした外務省の佐田白茅(はくぼう)が明治3年に帰国して、朝鮮側の非礼な態度に憤慨して説いて回ったのが征韓論の始まりだとされる。
日本は明治5年9月、旧対馬藩が管理していた釜山の草梁倭館を接収して、大日本公館と改称して外務省の管轄にした。
これを一方的だとして朝鮮側が反発した。
翌6年5月末、釜山の地方官庁、東莱(とんね)府が、日本人商人の貿易活動は許可していない、日本のやり方は「無法の国」だなどと非難する公示を大日本公館に対しておこなった。
外務省は「不慮の暴挙で国民が凌辱を受ける勢いであり、国辱に関わる」として、居留民保護のため「陸軍若干、軍艦幾隻」を派遣し、「公理公道を説いて談判に及ぶべきである」との原案を閣議に諮った。
参議板垣退助は佐田白茅に直接会って話を聞き、外務省原案に賛成し、兵士一大隊を急派せよと言った。
大勢は傾きかけたが、西郷隆盛はまずは使節を派遣すべき、これまでの使節は地位が低すぎた、全権を委ねられた大官を派遣せよと主張した。
三条太政大臣が、使節を派遣するにせよ護衛兵を率いて軍艦に乗って行くべきだと言った。
ところが西郷はこれにも反対し、使節は烏帽子、直垂で礼装し、非武装でなければならない、そして自らがその任にあたりたいと述べた。
板垣には書簡を送り、礼儀をもって交渉しているにもかかわらず、相手側が使節を弑するなどの暴挙に出れば、そのときこそ武力で抑えればいいと説得した。
8月17日、閣議で西郷を朝鮮に派遣することが内定した。
ところが、欧米視察に行っている岩倉具視の帰国まで引き延ばされた揚げ句、新たに参議となった大久保利通に反対される。
10月15日、西郷派遣はようやく正式決定する。
ところが岩倉は、西郷の朝鮮使節派遣と、大久保の朝鮮使節延期の両方を天皇に上奏するという。
「馬鹿なことをお言いでない。聖上陛下に判断させるなど……」西郷は絶句した。
岩倉は一歩も譲らない。
10月23日、岩倉は両決議を上奏したが、天皇は即答を避けた。
西郷は聖上の胸中を思って辞表を提出した。
政治の表舞台を去り、鹿児島に帰ったのである。
24日、天皇の裁断で西郷派遣は無期延期となった。
西郷さんを朝鮮に行かせていれば、その後の歴史は相当に変わっただろうと思うのは私だけではあるまい。
結果はどうあれ、西郷の「仁」と「礼」だけは朝鮮人の心に永遠に残っただろうから。
来年の大河ドラマ「西郷どん」では若き日々を描くらしい。
そうでなくとも、NHKは明治日本を悩ませた朝鮮問題など取り上げまい。
しかし、今でも日本は韓国・北朝鮮に手を焼いている。
現代につながる視点は大事にしたいものだ。
境界悪性腫瘍だったのに! ― 2017/10/28
12日の記事に書いたように、麻美ゆまさんがいきなり卵巣と子宮を全摘してしまったのは早計だったのではないかと当時、直感的に思った。
「Re Start ~どんな時も自分を信じて」を読んだら、その危惧は当たっていた。
手術中(つまり開腹してから)行われた「術中迅速診断」の結果は、悪性腫瘍ではなく、境界悪性腫瘍だった。
境界悪性とは、良性と悪性の間の性質を持つ病変。
やはり、彼女は後悔している。
p.245
「病気になった時、どうしてもっと希望を持てなかったのかって自分を悔やみました。
先生の『悪性の疑い』という言葉に〝がん〟だとばかり思い込んでいました。
どうしてあの時、まだ疑いがあるだけだったのに、『自分は違う』と思うことはできなかったのか。『境界悪性』という言葉を先生から聞けていたら、その可能性に向けて希望を持ち、卵巣を残すことができたのではないかって思いました。
だから、もし病院で卵巣がんの疑いがあると言われても、最後まで諦めず希望を捨てないでほしいです。」
今は歯もなるべく抜かないし、扁桃腺も盲腸も取らない時代。
私が高校時代に憧れた同級生(学校は違う)も35歳くらいで卵巣を取ったけれども、そのころとは時代が違う。今なら何とかならなかったのかな。
医者選び、病院選びには気をつけたほうがいいね~と、ゾッとした次第。
本自体は感動的な良い本でした。
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