南京陥落後に日中友好は成就した2018/01/14

「汪精衛自叙伝」(昭和16年9月10日発行)を読了した。

この本を読んだ目的の一つは、戦時中の南京の様子を知りたかったからだ。

汪精衛(汪兆銘)は国民政府の行政院長など務め、首都南京にいたが、日本軍が迫った昭和12年11月20日に南京を撤退した。

南京陥落の12月13日には現地にはいないわけだが、2年余り後の昭和15年3月17日、南京に戻り、新しい国民政府を樹立して主席代理となる。

もし「南京大虐殺」のような蛮行があれば、最も早く知りうる立場にあった。
ところが、380ページの本の中に、一個所も「虐殺」の文字などない。

南京の状況については、ただ一段落。
「南京を離れて一路、漢口に着くと民衆怨嗟の声がもう耳に入る。『負傷兵は続々と流れ込んで来て、あらゆる悪事を働いている。日本軍が来るか来ないか中に、我々は傷兵や土匪の蹂躙下に命を失ってしまうだろう』と。父老のこの言葉は今でもわたくしの耳に残っている」

むしろ中国兵の悪事についてはっきりと書いている。
これは東中野修道氏ら南京研究者の、南京に入場した日本軍は市民の中に紛れたゲリラの掃蕩に苦労した、という指摘に通じる。

その背後には共産党の存在があるのだが、それは稿を改めるとして、南京陥落一年後の昭和13年12月22日、「善隣友好、共同防共、経済提携」の近衛声明が出され、汪兆銘は「古来幾多の戦勝国にして無償不割譲を以て講和条件としてものがあろうか!」と感動し、同月30日には「和平反共救国」で応じる声明を出した。

汪兆銘はその後、共産党と結びついた蒋介石重慶政府に命を狙われながら、極秘裏に来日するなどし、昭和15年1月、青島会議で、重慶政府と絶縁して新政権樹立の本格活動に入る。
そして前述したとおり、同年3月17日、南京に戻り、新しい国民政府を樹立して主席代理となる。

そして、7月5日、日中の国交調整会議が開かれた日の気持ちを汪兆銘はこう記している。
「この日南京の空はひろびろと晴れ、夏の蒼空には綿雲が浮いて会議の前途の明るさを象徴し、蝉時雨がひと時大きな波の起伏をなして、豊かな高低で快く耳朶を打ち、流るるが如く通り過ぎて行く。会議場の庭にはいかめしい中日交渉の空気とは凡そかけ離れた柔らかな雰囲気が満ち、日本と中国との高邁なる友情に結びあっている両国代表の前に、情熱の花、真紅のカンナの花がかすかに揺れていた」

11月30日、日華基本条約で日本は南京国民政府を正式承認した。
また満州国も加わり、日華満三国共同宣言も調印された。

そのときの喜びもまた汪兆銘は美しく描いているが、これは割愛しよう。

果たして「南京大虐殺」のような許し難い行為があれば、このような浮き立つような気持ちで友好関係が結べるだろうか。しかも南京で!
時代の流れを追えば、南京大虐殺などなかったとすんなり理解できる。

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