母の見舞い2022/11/13

 あれは確か大学卒業の前年だったろう、母がまた入院したというので、夏休みで帰省した私は見舞いに行くことにした。病院は南北に細長い県庁所在地の一番南の外れにある赤十字病院だった。私の実家は北の台地にあるので、私営のバスでいったん中心街に下りて、また別の民間バスに乗り継いでいかねばならない。免許は持っていたのだが、車は父が通勤に使っていた。あるいは父は県内の別の町に単身赴任中だったかもしれない。ともかく車はなかった。でもそんなことは大したことじゃない。出かける前に大きな問題が起こった。
 高校時代の友人から電話があり、自分も帰省しているから会おうというのである。私は、これから母の見舞いに行くから、と断った。ところが、友人は引き下がらないのである。私はせっかくの水入らずに友人など連れて行きたくはない。おまけに日程の都合で見舞いに行けるのはその日しかなかった。そのころ東京では長期のアルバイトをやっていたし、上京してからようやく初めての恋人らしきものができたばかりだったという、そうしたもろもろの理由で滞在日程は短かったのだ。なんと言っても、入院という事情が事情である、普通なら分かってくれるはずだ。
 この友人をここではNとしよう。Nと私とは高校二年の時に同じクラスになった。Nはこの町にある、全国的に知らない者はないくらいの有名な私立の中学校から、県立高校であるうちの高校に入ってきていた。その私立は中高一貫教育だったから、高校で転じたのは奇妙なことだった。それにNは成績も悪くなかった。もっともそれは最初だけで、どんどん下降していったのだが、それは私も同じだ。Nはガロアという二十歳で死んだフランスの数学者に憧れていた。そのガロアの理論をNが本当に理解しているかどうかは数学に興味のない私にはわからなかったが、とにかくガロアはカッコイイ(当時の若者には最高の褒め言葉だった)らしかった。
 私はNの家によく遊びに行った。Nはジャズピアニストのキース・ジャレットのレコードをよく掛けた。本棚には手塚治虫の「火の鳥」の大判のコミックを全巻揃えていた。その本棚のさらに奥には、普通の高校生ならとても読みそうにない、どころか見たことさえない「SMマガジン」とか「薔薇族」などという淫靡な雑誌が隠してあった。Nはいったいどんな顔をしてそれらの雑誌を本屋で買うのだろう。私は一度だけその雑誌を借りたことがあったが、あまりに変態的で読めた代物ではなかった。その中で今でも覚えている読み物がある。それは小人の男が主人公で、いつも女性に馬鹿にされじらされ弄ばれているのだが、あるときついに女性器の中に身体ごと入って、すなわち全身が性器と化して強烈なエクスタシーを感じるというものだった。
 Nは硬式テニスが上手で少しは自信もあったようだが、校内の持久走大会で運動の得意ではない私が終盤に抜き去るとびっくりして、次に「へへへ」と照れ臭そうに笑ったものだ。Nとはバンドの真似事もした。とにかく二年の時はよく遊んだのだ。三年になると理系と文系に分かれ、Nは結局東京のぱっとしない私立の理科大学に進んだ。私も東京の私立大学に進んだのだから、東京で会うこともできるのだ。
 それなのに、私が母親の見舞いだと言っているのに、Nはそれなら自分も一緒に行くという。Nはどうしてこんなわがままを言ったのだろう。病床というのはある意味、神聖な場であろう。母の病気は生易しい病気ではなかった。私がちょうど大学受験のころのことだった。夜、父が「お母さんがおかしい」と困った様子で呼びに来たので両親の寝室に行ってみると、母が布団の上で身を屈め、手を押さえて「痛い、痛い」と泣いていた。Nの口癖に「よかいさ」というのがある。方言で「いいじゃないか」という意味である。きっとこのときもNは「よかいさ」と言ったのだろう。私はバスの時間も迫っており、「わかった、わかった」ということになったのかもしれない。
 同じ市内とはいえ、バスの接続がうまくいったとしても病院まで二時間以上かかる。道中の会話などは覚えていない。町外れへ向かうバスはがらんとしていたに違いない。南国の夏は暑くて窓をいっぱいに開け放し、会話も弛緩していただろう。海沿いの道を長く走った。この町は大きな火山の外輪山の内側に海が流れ込んでそのまま湾になっているので、平地は海沿いに細く長くあるだけだ。市街地も住宅地も抜け、まばらな集落の向こうにヨットハーバーが見えてきた。
 ようやく着いた病院は、海の中に突き出た広い敷地にあった。懐かしい小中学校の木造校舎のような建物が延々と続いている廊下を歩いていくと、母がいた。
 母は病院の白い着物を着ていた。不意の客であるNにも嫌な顔ひとつ見せず、輝くような笑顔で迎えてくれた。しばらくしてから、母が着物の裾をまくって自分の太腿を見せたのを覚えている。白い太腿の内側には赤い大きなあざがあった。「こんなところに、ほら、血の固まりができてしまって」。そんな言葉で明るく話したが、それは大変なことに違いなかった。母は循環器系の難病に冒されていた。血が多い上に固まりやすく、それが身体の末端部に詰まって壊疽をつくり激痛が走る。元来、母は従順な人で、物事に細かく口やかましい父に口答えひとつしたことがなかった。そうした長年の我慢がそうした症状となって出たのではないかとも思えた。私は母が良くなるなら大学受験などあきらめようと思い詰めたものだった。母は壊疽となった片手の人差し指を手術で切断するという大きな犠牲を払ったが、それで症状はいったん落ち着いた。そして私は第一志望には通らなかったものの、受かった大学に進学した。その後も母は症状が悪化しては足の指を何本か切るという繰り返しで、病気は一進一退という形だった。それが、これまでと違って手足の末端部ではない太腿にまで内出血しだしたというのはどういうことだろう。一進一退ではなく、確実に事態は悪い方に向かっていたのではなかったか。Nがいたから遠慮したのか、その詳しい説明はなかった。私は今さらながらNを連れてきてしまったことを後悔した。私はもっともっと母と甘いひとときを持ちたかった。物足りないままに母の元を辞した。そのあとNとどうしたのか全く記憶にないが、言葉少なく別れたと思う。
 その翌年、母は亡くなった。すなわち、あれは結果として母と共有できた残り少ない貴重な時間だったわけだ。
 あれからもう四十年余りがたつが、私のNに対する憎しみはかえって増している。
 あの日、台無しになってしまった病院でのこと、こればかりは取り返しがつかない。Nはどうしてあんな思いやりのないことをしたのか。赤の他人に患部の太腿を見せた母の気持ちを考えるといたたまれない。
 Nにはもう一生会うことはないだろう。会ってNを責め、反省させてやりたい気もするが、それとて不愉快なだけだ。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://restart.asablo.jp/blog/2022/11/13/9540774/tb