縄文土器と弥生土器どちらが古いか初めて分かった2022/11/13

指宿市の考古博物館ココはしむれ(橋牟礼川遺跡)に行ってきた。

調べてみると、私が隣の枕崎支局に勤務していた1994年4月―1997年3月のさなか、1996年4月にオープンしている。
恐らくその頃行っていると思う。

その頃は橋牟礼川遺跡の重要性など大して考えていなかったので、あらためて行こうと思ったのだ。

この遺跡のすごさは、全国で初めて、縄文土器が弥生土器よりも古いことを明らかにしたことだ。

今では常識中の常識だが、当時はなんと、縄文土器と弥生土器との違いとは時代の違いではなく、別々の民族が使っていたからだと考えられていた。

大正4年に旧制中学の男子生徒が同じ場所で両方の土器のかけらを発見した。同じ場所で見つかるはずはないのだが…と問題になる。

大正7、8年の発掘調査で、開聞岳の火山灰層をはさんで下の地層から縄文土器が、上の地層から弥生土器が発見された。
この結果、縄文土器が弥生土器よりも古い時代の土器であることが分かったのである。

この発見物語は、ココはしむれの「歴史劇場」のジオラマで見ることができるが、なんか感動してしまった。

鹿児島の人はもっとこの遺跡の重要性を知るべきだと思う(自分のことは棚に上げて…)。

埋葬された人骨2022/11/13

残酷だからという教育上の配慮かと思うが、博物館で甕棺や石棺などは展示の代表格だが、中に入っていた人骨は現物はもちろん写真も見ることはない(私も見たい方ではない)。

しかし、ココはしむれには人骨の写真があった。

こういうのが出てくるのだから、発掘というのは因果な、大変な作業だ。

貝塚で分かること2022/11/13

次もまた、ココはしむれの展示で分かったミニ知識。

縄文時代の海岸線はこうだったとか、どうして分かるんでしょう。

なんと貝塚のある場所は海岸線の近くだから、それで分かるそうです。

地質学の研究成果とも合致するそうです。

隼人は縄文・弥生人ではない2022/11/13

南九州の隼人といえば、古代人、その中でも縄文・弥生あたりの人々というイメージではないだろうか。

ところが、ところが…。

ココはしむれを出てすぐのところに、橋牟礼川遺跡がある。
そこには「隼人の民家」という竪穴式住居が復元されている。

クリックして説明文を読んでほしい。

西暦700年頃のもの、とある。

縄文・弥生どころか、古墳時代を過ぎて飛鳥時代となってその最終盤、奈良時代も目前という時代である。

文献上では、7世紀の終わりごろ(682年)から9世紀の初め(805年)にかけて、南九州の人々は当時の中央政府から「隼人」と呼ばれていた。

なんと平安時代の初めまで、である。
意外と最近(?)の人たちなのだ。

それにしても、隼人に限らず、日本の一般の人々はどうして縄文から奈良までの長い長い間、一万年にも及ぶ間、竪穴式住居なんて粗末なものに住み続けたのだろう。

古墳にはあんなに立派な石室を築いているのだ。
石造りの家なんて簡単につくれただろう。

少し前にポンペイの話をずいぶん書いた。
ポンペイでは紀元一世紀に街全体を石で造っており、豪邸や公共施設が火山灰の下から出てきている。

実は橋牟礼川遺跡も「東洋のポンペイ」と呼ばれている。
近くの開聞岳が大噴火を繰り返した。
特に縄文時代後期(約4000年前)、弥生時代中期(約2000年前)、西暦675年頃、そして874年の噴火で最終的に完全に埋まってしまった。

ポンペイ同様、当時の暮らしが封印された貴重な遺跡とはいえるものの、ただ、まあ、ポンペイのように石造りの街が丸ごと出てきたという感じではない。

明治10年、隼人の乱2022/11/13

10日に橋牟礼川遺跡で隼人関係の遺跡や展示を見たあとだけに、12日に南洲墓地を訪れて2千数百もの墓石が林立している中を巡っていると、西南戦争もまた〝隼人の乱〟であったのだと強く感じた。

しかも、今回初めて知ったのだが、駐車場の上のスペースは縄文遺跡なのだ。

縄文時代に隼人の先祖が暮らした地に、幕末明治の隼人たちが葬られているという不思議な因縁を感じた。

明治天皇御真影2022/11/13

南洲墓地が目的だったのではなく、西郷南洲顕彰館でやっている「明治天皇と南洲翁」が見たかったのだ。

明治天皇の御真影は初めて見た。
畏れ多くも撮影させていただいた。

母の見舞い2022/11/13

 あれは確か大学卒業の前年だったろう、母がまた入院したというので、夏休みで帰省した私は見舞いに行くことにした。病院は南北に細長い県庁所在地の一番南の外れにある赤十字病院だった。私の実家は北の台地にあるので、私営のバスでいったん中心街に下りて、また別の民間バスに乗り継いでいかねばならない。免許は持っていたのだが、車は父が通勤に使っていた。あるいは父は県内の別の町に単身赴任中だったかもしれない。ともかく車はなかった。でもそんなことは大したことじゃない。出かける前に大きな問題が起こった。
 高校時代の友人から電話があり、自分も帰省しているから会おうというのである。私は、これから母の見舞いに行くから、と断った。ところが、友人は引き下がらないのである。私はせっかくの水入らずに友人など連れて行きたくはない。おまけに日程の都合で見舞いに行けるのはその日しかなかった。そのころ東京では長期のアルバイトをやっていたし、上京してからようやく初めての恋人らしきものができたばかりだったという、そうしたもろもろの理由で滞在日程は短かったのだ。なんと言っても、入院という事情が事情である、普通なら分かってくれるはずだ。
 この友人をここではNとしよう。Nと私とは高校二年の時に同じクラスになった。Nはこの町にある、全国的に知らない者はないくらいの有名な私立の中学校から、県立高校であるうちの高校に入ってきていた。その私立は中高一貫教育だったから、高校で転じたのは奇妙なことだった。それにNは成績も悪くなかった。もっともそれは最初だけで、どんどん下降していったのだが、それは私も同じだ。Nはガロアという二十歳で死んだフランスの数学者に憧れていた。そのガロアの理論をNが本当に理解しているかどうかは数学に興味のない私にはわからなかったが、とにかくガロアはカッコイイ(当時の若者には最高の褒め言葉だった)らしかった。
 私はNの家によく遊びに行った。Nはジャズピアニストのキース・ジャレットのレコードをよく掛けた。本棚には手塚治虫の「火の鳥」の大判のコミックを全巻揃えていた。その本棚のさらに奥には、普通の高校生ならとても読みそうにない、どころか見たことさえない「SMマガジン」とか「薔薇族」などという淫靡な雑誌が隠してあった。Nはいったいどんな顔をしてそれらの雑誌を本屋で買うのだろう。私は一度だけその雑誌を借りたことがあったが、あまりに変態的で読めた代物ではなかった。その中で今でも覚えている読み物がある。それは小人の男が主人公で、いつも女性に馬鹿にされじらされ弄ばれているのだが、あるときついに女性器の中に身体ごと入って、すなわち全身が性器と化して強烈なエクスタシーを感じるというものだった。
 Nは硬式テニスが上手で少しは自信もあったようだが、校内の持久走大会で運動の得意ではない私が終盤に抜き去るとびっくりして、次に「へへへ」と照れ臭そうに笑ったものだ。Nとはバンドの真似事もした。とにかく二年の時はよく遊んだのだ。三年になると理系と文系に分かれ、Nは結局東京のぱっとしない私立の理科大学に進んだ。私も東京の私立大学に進んだのだから、東京で会うこともできるのだ。
 それなのに、私が母親の見舞いだと言っているのに、Nはそれなら自分も一緒に行くという。Nはどうしてこんなわがままを言ったのだろう。病床というのはある意味、神聖な場であろう。母の病気は生易しい病気ではなかった。私がちょうど大学受験のころのことだった。夜、父が「お母さんがおかしい」と困った様子で呼びに来たので両親の寝室に行ってみると、母が布団の上で身を屈め、手を押さえて「痛い、痛い」と泣いていた。Nの口癖に「よかいさ」というのがある。方言で「いいじゃないか」という意味である。きっとこのときもNは「よかいさ」と言ったのだろう。私はバスの時間も迫っており、「わかった、わかった」ということになったのかもしれない。
 同じ市内とはいえ、バスの接続がうまくいったとしても病院まで二時間以上かかる。道中の会話などは覚えていない。町外れへ向かうバスはがらんとしていたに違いない。南国の夏は暑くて窓をいっぱいに開け放し、会話も弛緩していただろう。海沿いの道を長く走った。この町は大きな火山の外輪山の内側に海が流れ込んでそのまま湾になっているので、平地は海沿いに細く長くあるだけだ。市街地も住宅地も抜け、まばらな集落の向こうにヨットハーバーが見えてきた。
 ようやく着いた病院は、海の中に突き出た広い敷地にあった。懐かしい小中学校の木造校舎のような建物が延々と続いている廊下を歩いていくと、母がいた。
 母は病院の白い着物を着ていた。不意の客であるNにも嫌な顔ひとつ見せず、輝くような笑顔で迎えてくれた。しばらくしてから、母が着物の裾をまくって自分の太腿を見せたのを覚えている。白い太腿の内側には赤い大きなあざがあった。「こんなところに、ほら、血の固まりができてしまって」。そんな言葉で明るく話したが、それは大変なことに違いなかった。母は循環器系の難病に冒されていた。血が多い上に固まりやすく、それが身体の末端部に詰まって壊疽をつくり激痛が走る。元来、母は従順な人で、物事に細かく口やかましい父に口答えひとつしたことがなかった。そうした長年の我慢がそうした症状となって出たのではないかとも思えた。私は母が良くなるなら大学受験などあきらめようと思い詰めたものだった。母は壊疽となった片手の人差し指を手術で切断するという大きな犠牲を払ったが、それで症状はいったん落ち着いた。そして私は第一志望には通らなかったものの、受かった大学に進学した。その後も母は症状が悪化しては足の指を何本か切るという繰り返しで、病気は一進一退という形だった。それが、これまでと違って手足の末端部ではない太腿にまで内出血しだしたというのはどういうことだろう。一進一退ではなく、確実に事態は悪い方に向かっていたのではなかったか。Nがいたから遠慮したのか、その詳しい説明はなかった。私は今さらながらNを連れてきてしまったことを後悔した。私はもっともっと母と甘いひとときを持ちたかった。物足りないままに母の元を辞した。そのあとNとどうしたのか全く記憶にないが、言葉少なく別れたと思う。
 その翌年、母は亡くなった。すなわち、あれは結果として母と共有できた残り少ない貴重な時間だったわけだ。
 あれからもう四十年余りがたつが、私のNに対する憎しみはかえって増している。
 あの日、台無しになってしまった病院でのこと、こればかりは取り返しがつかない。Nはどうしてあんな思いやりのないことをしたのか。赤の他人に患部の太腿を見せた母の気持ちを考えるといたたまれない。
 Nにはもう一生会うことはないだろう。会ってNを責め、反省させてやりたい気もするが、それとて不愉快なだけだ。