「塔の上のラプンツェル」分析2011/03/22

きのう、ディズニーアニメの「塔の上のラプンツェル」を見た。
これはかなり面白い。オススメ。

個人的に面白かったのは、これが河合隼雄の理論で明快に解釈できる典型的な物語パターンであったことだ。
以下、分析してみよう。
それがこの映画の面白さを減ずるものにはならないのでご安心を。
(ただし、ネタバレあり)

典拠するのは、河合氏の『昔話の深層 ユング心理学とグリム童話』(講談社+α文庫)と『昔話と日本人の心』(岩波現代文庫)の2冊。

まず、結論から言おう。
「ラプンツェル」は「母親殺し」の物語である。

そして、ラプンツェルは18歳まで塔に閉じこめられて、この先も塔に守られて居続けるのか、それとも外の世界に出て行くのか、がこの話の最大のテーマになっていることでわかるように、思春期の物語でもある。
つまり、母親殺しの形をとった、母親からの心理的自立、がテーマである。

ラプンツェルは赤ん坊の時に魔女にさらわれ、娘として育てられる。
ラプンツェルも魔女を母親と信じて疑わない。

すなわち、これはちょっと形を変えているものの、西洋の童話によく出てくる「継母」と同じである。

河合隼雄が指摘したように、「ヘンゼルとグレーテル」や「白雪姫」の母親は継母となっているが、もともとの話は実母だった。
母親というのは本来、子どもを殺したり捨てたりしてもおかしくない存在である(いつの時代も起こってきた事件だ。今も)。
ところが、母親というのは絶対に神聖な存在でなければならない。
だから、元の話の実母が継母にすり替えられてしまったのだ。

とまあ、このように河合が喝破して、私は目からウロコが何十枚も落ちた。

確かに継母と言うことにしておけば、「ま、血がつながってないから、あんな意地悪するんだよね」と変に納得してしまいがちだ。
実際にはもちろん、「ままはは」が悪い人ばかりではないのは当たり前だ。

ところが、人は、実母がわが子をいじめるドラマなど受け入れられないのだ。
だから、継母は実際以上に悪く描かれてきた。西洋でも、日本でも。

本当のところは、「継母」ばかりに負わされた否定的な側面も、同じ母親というものの暗黒面(ダークサイド)に過ぎないのだ。「実母」も「継母」も一人の母親に同時に存在する。これは女性たちも自分の心の中をのぞいてみれば、きっとうなずけるのではないだろうか。

「ラプンツェル」の話に戻そう。

この映画の場合、魔女=継母はそれほど悪い人には見えない。
ラプンツェルを塔から出そうとしないだけで、非常に可愛がっている。
塔から出さない理由も「あなたを危ない目に遭わせたくないのよ~ん」とちゃんと説明する。

もちろん、魔女はラプンツェルの持つ若返りの力が欲しくて幽閉しているのだが、
見ていて「な~んだ、そんな悪い人じゃないじゃん」と思えてしまう。

しかし、これは子供を圧倒的な庇護下においてスポイルしてしまう、典型的な「グレート・マザー」なのだ。

河合を引用しよう。

「母性はその根源において、死と生の両面性をもっている。つまり、産み育てる肯定的な面と、すべてを呑みこんで死に至らしめる否定的な面をもつ」
「否定的な面は、子どもを抱きしめる力が強すぎるあまり、子どもの自立をさまたげ、結局は子どもを精神的な死に追いやっている状態として認められる」

せっかく塔を出たラプンツェルは、いったん母親に屈して塔に戻ってしまう。

ここで面白いのは、愛する男(フリン・ライダーという変な名前)の助けを借りて、ラプンツェルは再び塔から出るかと思いきや、
男は塔に侵入するなり、魔女=継母から刺されて倒れ、何の役割も果たさないのだ。

結局、母親からの心理的自立は自力で勝ち取らなければならない、ということなのだろう。
魔女=継母は塔から転落して死亡(実質的には母親殺し)して、ラプンツェルは晴れて塔の世界(思春期)から脱することができるのだ。

この魔女がラプンツェルのグレート・マザーであるのは、生みの母である王妃が極端に影が薄いことからもわかるだろう。

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