どうして対馬藩の飛び地があったのか2017/10/30

福岡県小郡市に接する佐賀県基山町、鳥栖市の一部にはかつて、対馬藩の飛び地(田代領)があった。

もちろん対馬本藩とは遠く海を隔てている。
どうしてこんなところに飛び地があったのか。

昨日、対馬市文化財課・村瀬氏の話で、およそのところは分かった。

対馬を治める宗氏19代義智(よしとし)は、秀吉から朝鮮出兵の先導を命じられた。義父小西行長とともに朝鮮・明との交渉役を担当した。

文禄の役の功により、文禄4年(1595)、薩摩の出水郡に1万石が与えられた。秀吉の蔵入地(直轄地)だった。どのように支配していたかは分かっていないという。

出水郡は遠すぎたためか、慶長の役の功として慶長4年(1599)、出水郡に替えて肥前基肄(きい)・養父(やぶ)郡内に1万37石を与えられる。
田代領(現在の基山町、鳥栖市養父町)である。

2年前の慶長2年(1597)、 基肄・養父郡は領主小早川秀秋が越前へ移封され、秀吉の直轄地になっていたのだ。

田代領は、宗氏の家老である柳川氏が代官として治めた。
しかし、だんだんと領主的な振る舞いをするようになり、3代目の柳川調興は独立して幕臣になろうとした(柳川一件)。
調興は流罪となり、以降、代官に強い権限はなくなる。

田代領はその後、朝鮮名法「奇應丸」など「田代売薬」で有名になる。置き薬で越中富山などと並び称される。

久光製薬が鳥栖市に建てた「中冨記念くすり博物館」で、田代売薬について知ることができる。
この博物館は19世紀末ロンドン郊外の薬局を移設展示するなど、物珍しくなかなか面白い。

コメント

_ 荒木尚 ― 2018/05/04 12:01

大変興味深く拝見致しました。父方の故郷に当たります。この度山口へ出張があり、先祖の下調べをしておりましたところ、八月十八日の政変で都落ちする三条公の守護についた対馬藩士であったと知り、対馬府中藩に至り、このご縁となりました。田代に太田観音という寺がありますが、その裏庭に歌碑がございます。大君の御楯となりて捨つる身と思へば軽きわがいのちかなーとあります。小郡からは比較的近くにありますが、幼少の折祖母や父によく連れられて参りました。大変勉強になりました。有難うございました。

_ toshi ― 2018/05/05 06:13

荒木さん、コメントありがとうございます。七卿落ち(のち五卿)の警護を対馬藩士がしていたのですね。さっそく太田観音、行ってみたいと思います。
現在、海音寺潮五郎『加藤清正』を読んでいますが、秀吉の朝鮮の役についてかなり詳しく書いてあります。その感想も書く予定ですので、よかったらまたお読みください。

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