出水郡はどうして秀吉の直轄地だったか2017/10/31

昨日、対馬を治める宗義智が、 文禄の役の功により、秀吉の蔵入地(直轄地)である薩摩の出水郡1万石を与えられたと書いた。

では、そもそもどうして薩摩の出水郡が秀吉の直轄地となっていたか。
鹿児島人としては気になり、調べてみた。

島津忠辰(ただとき)は、島津氏の分家・薩州家7代当主。
文禄2年(1593年)、朝鮮出兵の際、本家の島津義弘について出兵することになっていたが、義弘と陣立を別にしてくれるよう秀吉に直訴した。

秀吉は願いを聞き入れなかったため、忠辰はやむなく義弘と共に玄界灘を渡ったものの病気と称して上陸しなかった。
この行動は秀吉の激怒をかい、同年5月1日、肥後宇土城主の小西行長に身柄を預けられ幽閉された上で改易を申し渡された。それからほどなくして、朝鮮加徳島の小西陣中にて病死した。享年28。

薩州家が断絶すると、薩州家の領地であった出水郡・高城郡(薩摩川内市の一部)は秀吉の直轄領となった。そのうち高尾野、野田、脇本、長島は対馬宗氏に与えられた。

その後、慶長の役での島津氏の活躍による恩賞として慶長4年(1599)に島津氏に返還された。
宗氏は代わりに田代領をもらったというわけである。

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