ウクライナに百済の姿見る ― 2022/03/22
斉明天皇の6年(660年)、百済は唐・新羅の連合軍に攻められて国家滅亡の危機に瀕し、10月、日本に援軍を要請してきた。
まさに今のウクライナがロシアに攻められて存亡の危機に陥っているのと同じだ。
斉明天皇は女性である。
すぐに救援を決断し、12月に難波宮で軍備を整えると、翌661年正月6日、自ら軍を率いて筑紫に向かった。
船には二人の息子、中大兄皇子(天智)と大海人皇子(天武)も同乗していた。
68歳だから当時かなりの老齢だ。
途中、伊予の熟田津(にきたつ、愛媛県道後温泉あたり)で、約70日間疲れをいやす。
船は3月25日、現在の博多港に到着し、その後、斉明天皇は「筑紫の朝倉の宮」に移る。
しかし、7月24日、天皇は朝倉宮で崩御する。
皇太子である中大兄皇子は朝倉で12日間、喪に服した。
中大兄は長津宮(福岡市)に移ると、母斉明天皇の遺志を継ぎ、8月には百済救援軍を送る。
ほとんどの歴史の本が、例によって自虐史観で、日本の敗北を強調したいがために、このあといきなり「白村江で大敗」を喫したように書く。
とんでもない。
白村江の戦いはこの2年後、663年8月である。
その間、いろんなことがある。
『日本書紀』で流れを追ってみよう。
661年8月の先兵に続いて、9月には、30年間人質に取っていた百済の王子余豊璋(よほうしょう)に織冠を授け妻をめとらせた上で、軍兵5千人余に護らせて百済に送った。
10月7日、中大兄は斉明天皇の棺とともに帰途に就き、同月23日難波に帰還する。
11月には天皇の棺を飛鳥川原に運んで殯(もがり)をおこなった。
12月には半島のもう一つの国、高麗を唐軍が襲う。
662年正月と3月に日本は百済にいろんな物資を送っている(『日本書紀』参照)。
同3月、唐・新羅に攻められた高麗が日本に救援を請うてくる。
日本が軍将を派遣して守らせた結果、唐も新羅も攻め切れなかった。
5月、大将軍阿曇比邏夫(あずみのひらふ)が170艘を率いて豊璋を送り届け、宣勅によって百済王の位を継承させた。
(前年9月に豊璋は送り届けたはずだが、日本の天皇のお墨付きが必要で再び日本に戻っていたようだ)
阿曇比邏夫は福信(首相にあたる人物)に詔勅を書いた金製の札を与え、爵と禄を与えた。
豊璋と福信は拝礼して勅(みことのり)を承り、人々は涙を流した。
なんと、日本はいったん百済再興を果たしたのである!
どうしてこれに触れないのか。
その後も新羅との戦いは続いたので、663年3月、日本は2万7000人の兵を送った(第4次の派兵か)。
6月、新羅の2城を攻略するも、百済王の豊璋が福信(まさに腹心だが)を斬るという事件が起こる。
8月、さらに日本は1万人余を増派したらしい(第5次)。
唐の軍将は170隻を率いて白村江に配置した。
27、28の両日、日本軍と唐軍が交戦。唐の陣は堅く、左右から日本の船を挟み込んで攻撃した。船は向きを変えることもできなかった。溺死する者が多かった。
王の豊璋は高麗へ逃げ去った。
百済人は多数、日本に亡命した。
これも今のウクライナを想起させる。
中大兄は百済人たちに安住の地を与え、その一方で防衛体制を整備する。
664年、対馬、壱岐、筑紫に防人(さきもり)と烽火(のろし)を配置する。
筑紫には大堤を築いて水を貯えた(水城)。
665年には達率(だちそち=百済の官位)二人を筑紫に遣わし、大野城と基肄(きい)城を築かせた。
(写真は基肄城址に建てられた天智天皇の碑=中大兄皇子が即位するのは668年正月)
今はそれで「朝鮮式山城」と呼んで有り難がっているが、日本人が亡命百済人に仕事を与えて造らせたのである。
まさに今のウクライナがロシアに攻められて存亡の危機に陥っているのと同じだ。
斉明天皇は女性である。
すぐに救援を決断し、12月に難波宮で軍備を整えると、翌661年正月6日、自ら軍を率いて筑紫に向かった。
船には二人の息子、中大兄皇子(天智)と大海人皇子(天武)も同乗していた。
68歳だから当時かなりの老齢だ。
途中、伊予の熟田津(にきたつ、愛媛県道後温泉あたり)で、約70日間疲れをいやす。
船は3月25日、現在の博多港に到着し、その後、斉明天皇は「筑紫の朝倉の宮」に移る。
しかし、7月24日、天皇は朝倉宮で崩御する。
皇太子である中大兄皇子は朝倉で12日間、喪に服した。
中大兄は長津宮(福岡市)に移ると、母斉明天皇の遺志を継ぎ、8月には百済救援軍を送る。
ほとんどの歴史の本が、例によって自虐史観で、日本の敗北を強調したいがために、このあといきなり「白村江で大敗」を喫したように書く。
とんでもない。
白村江の戦いはこの2年後、663年8月である。
その間、いろんなことがある。
『日本書紀』で流れを追ってみよう。
661年8月の先兵に続いて、9月には、30年間人質に取っていた百済の王子余豊璋(よほうしょう)に織冠を授け妻をめとらせた上で、軍兵5千人余に護らせて百済に送った。
10月7日、中大兄は斉明天皇の棺とともに帰途に就き、同月23日難波に帰還する。
11月には天皇の棺を飛鳥川原に運んで殯(もがり)をおこなった。
12月には半島のもう一つの国、高麗を唐軍が襲う。
662年正月と3月に日本は百済にいろんな物資を送っている(『日本書紀』参照)。
同3月、唐・新羅に攻められた高麗が日本に救援を請うてくる。
日本が軍将を派遣して守らせた結果、唐も新羅も攻め切れなかった。
5月、大将軍阿曇比邏夫(あずみのひらふ)が170艘を率いて豊璋を送り届け、宣勅によって百済王の位を継承させた。
(前年9月に豊璋は送り届けたはずだが、日本の天皇のお墨付きが必要で再び日本に戻っていたようだ)
阿曇比邏夫は福信(首相にあたる人物)に詔勅を書いた金製の札を与え、爵と禄を与えた。
豊璋と福信は拝礼して勅(みことのり)を承り、人々は涙を流した。
なんと、日本はいったん百済再興を果たしたのである!
どうしてこれに触れないのか。
その後も新羅との戦いは続いたので、663年3月、日本は2万7000人の兵を送った(第4次の派兵か)。
6月、新羅の2城を攻略するも、百済王の豊璋が福信(まさに腹心だが)を斬るという事件が起こる。
8月、さらに日本は1万人余を増派したらしい(第5次)。
唐の軍将は170隻を率いて白村江に配置した。
27、28の両日、日本軍と唐軍が交戦。唐の陣は堅く、左右から日本の船を挟み込んで攻撃した。船は向きを変えることもできなかった。溺死する者が多かった。
王の豊璋は高麗へ逃げ去った。
百済人は多数、日本に亡命した。
これも今のウクライナを想起させる。
中大兄は百済人たちに安住の地を与え、その一方で防衛体制を整備する。
664年、対馬、壱岐、筑紫に防人(さきもり)と烽火(のろし)を配置する。
筑紫には大堤を築いて水を貯えた(水城)。
665年には達率(だちそち=百済の官位)二人を筑紫に遣わし、大野城と基肄(きい)城を築かせた。
(写真は基肄城址に建てられた天智天皇の碑=中大兄皇子が即位するのは668年正月)
今はそれで「朝鮮式山城」と呼んで有り難がっているが、日本人が亡命百済人に仕事を与えて造らせたのである。
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