斉明天皇① ― 2022/03/10
斉明天皇は天智・天武天皇の母で、それ以外にはあまり言及されないようだ。詳しく知りたいと思っても、適当な本が見当たらない。
しかし、かなり偉大な天皇であったと思われる。
というのも高麗、百済、新羅がこぞって服属しているからだ。
そして斉明6年(660年)10月、百済が唐の捕虜100人を献上して救援を請うてくる。斉明天皇はすぐに決断、12月には難波宮で軍備を整え、翌年正月6日、68歳の天皇自ら難波津を出航し、筑紫に向かった。
船には中大兄皇子(天智)や大海人皇子(天武)も同乗していた。
途中、伊予の熟田津(にきたつ、愛媛県道後温泉あたり)で、約70日間疲れをいやす。
そして再び出帆するとき額田王が詠んだのがこの歌。
熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
(熟田津から船出をしようと月の出を待っていると、待ち望んでいたとおり、月も出、潮の流れもちょうどよい具合になった。さあ、今こそ漕ぎ出そうぞ。)~伊藤博『萬葉集釈注1』(集英社文庫)
船は3月25日、現在の博多港に到着し、その後、斉明天皇は「筑紫の朝倉の宮」に移る。しかし、7月24日、天皇は朝倉宮で崩御する。まさに朝鮮のためにご老体を犠牲になさったわけだ。昔から日本に頼って迷惑ばかりかける国だ。
朝倉宮は正式には「朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)」と言って、福岡県朝倉市須川にその跡と記した碑が建っており、そこには以前行ったことがある。
斉明天皇の陵墓は奈良県高市郡明日香村にある牽牛子塚(けんごしづか)古墳で、三段、八角形の特徴的な形状をしている。
全体を白い凝灰岩で装飾していた当時の姿が再現され、今月公開されて話題になった。
斉明天皇のご遺骸が飛鳥に運ばれる前、いったん朝倉で葬儀が営まれた。
その場所は「朝倉橘広庭宮」ではない。
恵蘇八幡宮になっている場所だと知って行ってみた。
思った以上に素晴らしい神社だった。
しかし、かなり偉大な天皇であったと思われる。
というのも高麗、百済、新羅がこぞって服属しているからだ。
そして斉明6年(660年)10月、百済が唐の捕虜100人を献上して救援を請うてくる。斉明天皇はすぐに決断、12月には難波宮で軍備を整え、翌年正月6日、68歳の天皇自ら難波津を出航し、筑紫に向かった。
船には中大兄皇子(天智)や大海人皇子(天武)も同乗していた。
途中、伊予の熟田津(にきたつ、愛媛県道後温泉あたり)で、約70日間疲れをいやす。
そして再び出帆するとき額田王が詠んだのがこの歌。
熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
(熟田津から船出をしようと月の出を待っていると、待ち望んでいたとおり、月も出、潮の流れもちょうどよい具合になった。さあ、今こそ漕ぎ出そうぞ。)~伊藤博『萬葉集釈注1』(集英社文庫)
船は3月25日、現在の博多港に到着し、その後、斉明天皇は「筑紫の朝倉の宮」に移る。しかし、7月24日、天皇は朝倉宮で崩御する。まさに朝鮮のためにご老体を犠牲になさったわけだ。昔から日本に頼って迷惑ばかりかける国だ。
朝倉宮は正式には「朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)」と言って、福岡県朝倉市須川にその跡と記した碑が建っており、そこには以前行ったことがある。
斉明天皇の陵墓は奈良県高市郡明日香村にある牽牛子塚(けんごしづか)古墳で、三段、八角形の特徴的な形状をしている。
全体を白い凝灰岩で装飾していた当時の姿が再現され、今月公開されて話題になった。
斉明天皇のご遺骸が飛鳥に運ばれる前、いったん朝倉で葬儀が営まれた。
その場所は「朝倉橘広庭宮」ではない。
恵蘇八幡宮になっている場所だと知って行ってみた。
思った以上に素晴らしい神社だった。
斉明天皇② ― 2022/03/10
斉明天皇③ ― 2022/03/10
斉明天皇④ ― 2022/03/10
それにしても、斉明7年(661年)3月25日に娜大津(なのおおつ、今の博多港)に着いた斉明天皇は、いったん磐瀬行宮(いわせのかりみや、福岡市内)に入りながら、どうして5月9日、朝倉橘広庭宮に移ったのか。
福岡市から朝倉市までは今でもかなり遠い。
ましてや当時は大変だろう。
福岡市内が何らかの理由で不都合だったとしても、途中の大宰府でいいではないか。
「筑紫大宰」が歴史上に現われるのは推古17年(609年)が最初だから、それから50年以上たって大宰府政庁もだいぶ整備されていただろう。
天皇がそこに落ち着くのはごく自然だ。
ところが、斉明天皇ははるばる朝倉まで行った。
しかも朝倉では悪いことばかり起こる。
朝倉橘広庭宮は朝倉社の木を切って作ったために、神様が怒って御殿を壊した。また宮殿内に鬼火が現われ、大舎人や近侍の人々がたくさん病死した。
そしてとうとう7月24日、天皇ご自身も死んでしまう。
8月1日の宵、朝倉山の上に鬼が現われ、大笠を着て喪の儀式を覗いていた。
これは中大兄皇子(天智天皇)が木の丸殿で12日間の喪に服していた時に当たる。
したがって、このときの御製「朝倉や木の丸殿に我居れば名のりをしつつ行くは誰が子ぞ」とは、怪しい者(鬼)の正体を問うたものだと解釈していいのではないか。
福岡市から朝倉市までは今でもかなり遠い。
ましてや当時は大変だろう。
福岡市内が何らかの理由で不都合だったとしても、途中の大宰府でいいではないか。
「筑紫大宰」が歴史上に現われるのは推古17年(609年)が最初だから、それから50年以上たって大宰府政庁もだいぶ整備されていただろう。
天皇がそこに落ち着くのはごく自然だ。
ところが、斉明天皇ははるばる朝倉まで行った。
しかも朝倉では悪いことばかり起こる。
朝倉橘広庭宮は朝倉社の木を切って作ったために、神様が怒って御殿を壊した。また宮殿内に鬼火が現われ、大舎人や近侍の人々がたくさん病死した。
そしてとうとう7月24日、天皇ご自身も死んでしまう。
8月1日の宵、朝倉山の上に鬼が現われ、大笠を着て喪の儀式を覗いていた。
これは中大兄皇子(天智天皇)が木の丸殿で12日間の喪に服していた時に当たる。
したがって、このときの御製「朝倉や木の丸殿に我居れば名のりをしつつ行くは誰が子ぞ」とは、怪しい者(鬼)の正体を問うたものだと解釈していいのではないか。
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