ソ連は一体、樺太・千島で何をしたか2022/03/01

拙著『林芙美子が見た大東亜戦争』のp.98-100をご覧ください。

満州にソ連軍が侵攻した(昭和20年)八月九日朝、ソ連軍は南樺太にも武力行使した。国境警察を襲撃して巡査二人を殺害し、監視哨を砲撃した。
 同十一日から本格的な樺太侵攻作戦が始まった。
 不意打ちの侵攻に直面しながら、日本軍は頑強に抵抗した。
 しかし、十四日午後六時にポツダム宣言受諾が伝えられ、十五日には玉音放送が流れた。停戦と戦闘という相反する命令で、現場では混乱が生じていた。
 十六日、ソ連軍は恵須取(えすとる)近郊に上陸、住民で組織した義勇戦闘隊員を巻き込んだ市街戦となり、十七日占領された。その過程でソ連軍に追われた太平炭鉱病院の看護婦による集団自決が起きた。
 二十日未明、ソ連軍艦が真岡に艦砲射撃を加えた後、上陸し市街を制圧した。真岡郵便局の交換手女性九人が服毒自殺した。
 二十二日、ようやくソ連との間に停戦協定が成立した。ところが、その直後、ソ連軍機が豊原を爆撃する。「日本内地に対する最後の無差別爆撃」である。ソ連軍機は爆弾を投下した上に避難民に機銃掃射した。百人以上が死亡したとみられている。
 ソ連軍は二十三日豊原、二十五日大泊に進駐し、南樺太全土を占領した。そして大泊を拠点に、南千島占領へ向かった。
 二十八日択捉島に上陸し、翌日日本軍を武装解除。九月一日国後島と色丹島、同五日歯舞諸島を占領した。
 以上が、北方領土問題の始まりである。
 樺太と千島で拘留された日本軍兵士はシベリアへ送られた。

これが事実であるのに、昨日、駐日ロシア連邦大使館は「日本の外務省は、歴史を忘れています。クリル諸島は、南クリルも含め、第二次世界大戦の結果として、連合国の決定に従い法的根拠に基づいて、我が国に譲渡されました。」とツイートした。

まさに盗人猛々しいのがソ連から変わらぬロシアの体質。
ウクライナは他人事ではない。
ぼんやりしていても北方領土は返ってこない。
もっと強くロシアの不法を主張し、実力で占拠して取り戻さなければならない。