斉明天皇⑦卑弥呼の墓(上)2022/03/30

昨日、朝倉市の恵蘇八幡宮を再訪した。

帰りに近くのアップルパイとパスタの店「林檎と葡萄の樹」に行ってみたら、細い山道の途中に「卑弥呼の墓」があった。

ちなみに大変な人気店で、道がとても細いにもかかわらず車が多いので充分な注意が必要だ(個人的にはもう行きたくない)。

斉明天皇⑧卑弥呼の墓(下)2022/03/30

さて、「卑弥呼の墓(長田大塚古墳)」の看板を見ていただこう。(クリックで大きくなります)
前半が斉明天皇について、後半が卑弥呼について書いてある。
まず前半に注目したい。

斉明天皇①に書いたように、天皇は百済救援を決断して、661年3月25日に娜大津(なのおおつ、現在の博多港)に到着し、磐瀬(いわせ)の行宮(かりみや)に落ち着いた。
5月9日には「朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)」に移る。

この宮は、朝倉の社の木を切り払って造ったために神が怒って宮殿を壊した、と『日本書紀』にある。

看板によると、ここ(つまり長田大塚古墳のある所)にあった朝倉社(麻氐良布=まてらふ=神社)を東(夏至の日の出の方向)の朝倉山(麻氐良=あさくら=山)の山上に移設し、その社の杜の木で宮(朝倉橘広庭宮)を造営して滞在したという。

朝倉社の位置の特定という、大変重要なことが書いてある。

後半の卑弥呼に関する記述はあまり意味がなく、ここが卑弥呼の墓である証明にはなっていない。

ただ、『日本書紀』では卑弥呼と神功皇后とは同一人物としている。
神功皇后は熊襲征伐でこのあたりを訪れ、羽白熊鷲と戦って殺している。

斉明天皇がなぜわざわざ朝倉という遠く不便な場所に移り住んだかという答えがここにあるかもしれない。

斉明天皇は同じ女性であり三韓征伐という偉業を成し遂げた神功皇后を深く尊敬し、その力にあやかって自らの新羅征伐を成功させたかったのだろう。