斉明天皇④2022/03/10

それにしても、斉明7年(661年)3月25日に娜大津(なのおおつ、今の博多港)に着いた斉明天皇は、いったん磐瀬行宮(いわせのかりみや、福岡市内)に入りながら、どうして5月9日、朝倉橘広庭宮に移ったのか。

福岡市から朝倉市までは今でもかなり遠い。
ましてや当時は大変だろう。

福岡市内が何らかの理由で不都合だったとしても、途中の大宰府でいいではないか。

「筑紫大宰」が歴史上に現われるのは推古17年(609年)が最初だから、それから50年以上たって大宰府政庁もだいぶ整備されていただろう。
天皇がそこに落ち着くのはごく自然だ。

ところが、斉明天皇ははるばる朝倉まで行った。

しかも朝倉では悪いことばかり起こる。
朝倉橘広庭宮は朝倉社の木を切って作ったために、神様が怒って御殿を壊した。また宮殿内に鬼火が現われ、大舎人や近侍の人々がたくさん病死した。

そしてとうとう7月24日、天皇ご自身も死んでしまう。

8月1日の宵、朝倉山の上に鬼が現われ、大笠を着て喪の儀式を覗いていた。

これは中大兄皇子(天智天皇)が木の丸殿で12日間の喪に服していた時に当たる。

したがって、このときの御製「朝倉や木の丸殿に我居れば名のりをしつつ行くは誰が子ぞ」とは、怪しい者(鬼)の正体を問うたものだと解釈していいのではないか。

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