15年前の軍艦島(端島)上陸 ― 2024/12/23
![](http://restart.asablo.jp/blog/img/2024/12/23/6e9c8d.jpg)
昨日完結したテレビドラマ「海に眠るダイヤモンド」は、何と言っても、長崎の端島炭坑に正面から取り組んだ骨太さを称賛したい。
下に書いたように、今では「軍艦島」の通り名が定着してしまって、「端島」の名で呼ばれることは少ない。
そこをあくまで「端島」で一貫した。
私は15年前の2009年11月6日に軍艦島に上陸した。
そのときの写真と撮影コメントである。
写真はお見せするようなものではないが、15年前なのでまあいいでしょう。
タイトルは「廃墟と私(軍艦島にて)」です。
軍艦島は長崎市の沖合に浮かぶ、周囲およそ1200mの小さな、小さな島。1891年から1974年まで、三菱の海底炭坑だった。最盛期には5300人もの人たちが日本初の鉄筋コンクリート造りの高層住宅にひしめき合って住み、学校や病院、商店、映画館からパチンコ屋まであったという。それが無人島となって35年。コンクリートの廃墟と護岸だけになった姿は、本当に軍艦によく似ている。「端島(はしま)」という実の名はかすんでしまった。
今の私には、そんな究極の廃墟が似合うと思った。
昨年、50歳で会社を辞めた。リストラでもなく自ら進んで辞めたのだから腐ってるわけではない。でも、どこにも何にも所属していないという心許なさはある。早く第2の人生の明確な姿が見えればいいのだが、まだそれは見えない。だから、廃墟で自分を撮る。
軍艦島では廃墟の中に入り込んでいけるものだとばかり思っていた。瓦礫を踏みしめて行くつもりだった。ところが、世界遺産暫定リストに載ったせいか、上陸者は厳しく管理されている。わずか300mほどのガードレールの付いた道を歩けるだけなのだ。船に40分ほども揺られてきたのに、とがっかりする。しかも〝軍艦島コンシェルジェ〟という人たちが目を光らせている。その一方では釣り人が勝手に船でやってきて、防波堤の上から糸を垂らしている。その連中のことは見て見ぬふりだ。仕方がない。それも現実だ。撮れるところで撮ろう。
島で一番高いところが、この夏スコットランドで見たエジンバラ城の城塞にそっくりで気に入った。やっぱりガードレールが邪魔だ。あえてポーズは取らない。愛敬はないが、ぶすっとしてるのが今の私の本当の姿だろう。
以上が当時書いた文章である。
最後に、昨日ドラマの最終回に出てきた言葉。
人は過去に生きることはできない。未来に生きることもできない。
今を一生懸命に生きることだ。
下に書いたように、今では「軍艦島」の通り名が定着してしまって、「端島」の名で呼ばれることは少ない。
そこをあくまで「端島」で一貫した。
私は15年前の2009年11月6日に軍艦島に上陸した。
そのときの写真と撮影コメントである。
写真はお見せするようなものではないが、15年前なのでまあいいでしょう。
タイトルは「廃墟と私(軍艦島にて)」です。
軍艦島は長崎市の沖合に浮かぶ、周囲およそ1200mの小さな、小さな島。1891年から1974年まで、三菱の海底炭坑だった。最盛期には5300人もの人たちが日本初の鉄筋コンクリート造りの高層住宅にひしめき合って住み、学校や病院、商店、映画館からパチンコ屋まであったという。それが無人島となって35年。コンクリートの廃墟と護岸だけになった姿は、本当に軍艦によく似ている。「端島(はしま)」という実の名はかすんでしまった。
今の私には、そんな究極の廃墟が似合うと思った。
昨年、50歳で会社を辞めた。リストラでもなく自ら進んで辞めたのだから腐ってるわけではない。でも、どこにも何にも所属していないという心許なさはある。早く第2の人生の明確な姿が見えればいいのだが、まだそれは見えない。だから、廃墟で自分を撮る。
軍艦島では廃墟の中に入り込んでいけるものだとばかり思っていた。瓦礫を踏みしめて行くつもりだった。ところが、世界遺産暫定リストに載ったせいか、上陸者は厳しく管理されている。わずか300mほどのガードレールの付いた道を歩けるだけなのだ。船に40分ほども揺られてきたのに、とがっかりする。しかも〝軍艦島コンシェルジェ〟という人たちが目を光らせている。その一方では釣り人が勝手に船でやってきて、防波堤の上から糸を垂らしている。その連中のことは見て見ぬふりだ。仕方がない。それも現実だ。撮れるところで撮ろう。
島で一番高いところが、この夏スコットランドで見たエジンバラ城の城塞にそっくりで気に入った。やっぱりガードレールが邪魔だ。あえてポーズは取らない。愛敬はないが、ぶすっとしてるのが今の私の本当の姿だろう。
以上が当時書いた文章である。
最後に、昨日ドラマの最終回に出てきた言葉。
人は過去に生きることはできない。未来に生きることもできない。
今を一生懸命に生きることだ。
亀形石について ― 2023/10/31
林芙美子は長崎原爆を描いていた ― 2021/08/09
林芙美子は昭和26年6月に急逝したため、連載中の7作が絶筆になってしまった。その中でも「真珠母(しんじゅも)」という作品は注目だ。
主人公の畠中雪子は長崎市内で被爆する。
当日の描写はこうだ。
「丁度十一時頃であったろうか、ピカッと白い光りものがして、赤ん坊の景子を寝かしつけながら、隣家の屋根の方を、ぼんやり見ていた雪子は、ふわっと体が持ち上がるような気がした。隣家の屋根瓦が、五六枚ずつ煎餅をかきよせるように、ひとりでに動く。空が黄いろく昏くなった。耳底の裂けるような、爆音と同時のようだった。雪子はあわてて子供の上に伏さった。ざあっと雨の降るようなもの凄い音が四囲一面にたちこめている。
雪子は、大変なことになったと、景子に敷布をかぶせながら、離れの病室へ走って行くと、離れの柱が急角度にかたむき、叔母も叔父も穴のあいた壁ぎわに抱きあっていた。台所にいた雪子の母も、頭から砂をかぶって、離れへ走って来た。
離れは、土俵の四本柱のように、かたむいた柱があるきりで、屋根は吹きとばされている。
(略)
雪子の家は、浦上から金比羅山を中間にしてへだたっていたので、家にいたものだけは助かったが、叔母の娘達は姉は城山校へ土運びに行き、妹は県庁で、この日亡くなってしまった。」
文中には「長崎医大の、永井隆博士の書かれたもの」が出てくる。
有名な『長崎の鐘』が刊行されたのは昭和24年。林芙美子はそれを昭和26年には読んでいたのだ。
畠中雪子は危うく命は助かった。
「畠中」の名字で分かるように、夫は鹿児島の人間。出征中だったが、終戦後に戦死が分かる。
美しい未亡人の雪子はこれからどうなっていくのか、原爆をテーマにしたこの小説が未完になってしまったのは残念でならない。「雪子」は『浮雲』の「ゆき子」にも通じるから、芙美子はかなり気合を入れてこの小説を書こうとしていたに違いない。
芙美子が最後まで戦争にこだわり続けたことが分かる。
主人公の畠中雪子は長崎市内で被爆する。
当日の描写はこうだ。
「丁度十一時頃であったろうか、ピカッと白い光りものがして、赤ん坊の景子を寝かしつけながら、隣家の屋根の方を、ぼんやり見ていた雪子は、ふわっと体が持ち上がるような気がした。隣家の屋根瓦が、五六枚ずつ煎餅をかきよせるように、ひとりでに動く。空が黄いろく昏くなった。耳底の裂けるような、爆音と同時のようだった。雪子はあわてて子供の上に伏さった。ざあっと雨の降るようなもの凄い音が四囲一面にたちこめている。
雪子は、大変なことになったと、景子に敷布をかぶせながら、離れの病室へ走って行くと、離れの柱が急角度にかたむき、叔母も叔父も穴のあいた壁ぎわに抱きあっていた。台所にいた雪子の母も、頭から砂をかぶって、離れへ走って来た。
離れは、土俵の四本柱のように、かたむいた柱があるきりで、屋根は吹きとばされている。
(略)
雪子の家は、浦上から金比羅山を中間にしてへだたっていたので、家にいたものだけは助かったが、叔母の娘達は姉は城山校へ土運びに行き、妹は県庁で、この日亡くなってしまった。」
文中には「長崎医大の、永井隆博士の書かれたもの」が出てくる。
有名な『長崎の鐘』が刊行されたのは昭和24年。林芙美子はそれを昭和26年には読んでいたのだ。
畠中雪子は危うく命は助かった。
「畠中」の名字で分かるように、夫は鹿児島の人間。出征中だったが、終戦後に戦死が分かる。
美しい未亡人の雪子はこれからどうなっていくのか、原爆をテーマにしたこの小説が未完になってしまったのは残念でならない。「雪子」は『浮雲』の「ゆき子」にも通じるから、芙美子はかなり気合を入れてこの小説を書こうとしていたに違いない。
芙美子が最後まで戦争にこだわり続けたことが分かる。
ハウステンボスは引き揚げの場だった ― 2020/08/16
Go To 効果は? ― 2020/07/28
![](http://restart.asablo.jp/blog/img/2020/07/28/5ae677.jpg)
25、26、四連休の土日はハウステンボスに行ってきた。
がらがらだったなあ…。
がらがらだったなあ…。
憲法改正をしないままの防衛強化は間違っている ― 2018/07/17
15日付産経新聞一面トップに、中国の脅威に対抗して、鹿児島県の馬毛島にF15戦闘機を展開し、海自・空自の拠点にすると出ていた。
今年の3月には、陸自が長崎に「水陸機動団」を発足させた。
これも中国から侵略を受けた島嶼部の奪回を任務としている。
こうやって着々と中国軍に備えるのはいい。自衛隊の能力も信頼している。
危惧するのは肝心の憲法改正がほったらかしであることだ。
今のところ、有力な改正案は、現在の9条はそのままに、自衛隊を明記して、その指揮は内閣総理大臣が執るという条文を加えるというものだ。
その案でいい。一刻も早く、改正しなければならない。
東條英機が遺書にこう書いている。
「我が国従来の統帥権独立の思想は確かに間違っている。あれでは陸海軍一本の行動は採れない」
軍を一つの意志にもとづいて指揮運用する「軍令」の権を統帥権という。
統帥権は、内閣制度の国では当然内閣が持つのだが、プロイセン(ドイツ)が統帥権を政府から独立させ、首相は関与しないという慣行を確立させ、プロイセンを範とした日本陸軍が統帥権の独立を図ったという。
天皇以外には陸海軍を統一する機関・組織が全く存在しなかった。
そして天皇ご自身は、立憲国の君主として、政府と統帥部との一致した意見は認めなければならないというお考えで、時に忠告くらいはしたものの、基本的に口出しはしなかった。
誰も陸海軍を束ねる者はいなかったことになる。
日本はまるでその反省がない。
また統帥権をあいまいにしたまま、中国と戦争をしようとしている。
今年の3月には、陸自が長崎に「水陸機動団」を発足させた。
これも中国から侵略を受けた島嶼部の奪回を任務としている。
こうやって着々と中国軍に備えるのはいい。自衛隊の能力も信頼している。
危惧するのは肝心の憲法改正がほったらかしであることだ。
今のところ、有力な改正案は、現在の9条はそのままに、自衛隊を明記して、その指揮は内閣総理大臣が執るという条文を加えるというものだ。
その案でいい。一刻も早く、改正しなければならない。
東條英機が遺書にこう書いている。
「我が国従来の統帥権独立の思想は確かに間違っている。あれでは陸海軍一本の行動は採れない」
軍を一つの意志にもとづいて指揮運用する「軍令」の権を統帥権という。
統帥権は、内閣制度の国では当然内閣が持つのだが、プロイセン(ドイツ)が統帥権を政府から独立させ、首相は関与しないという慣行を確立させ、プロイセンを範とした日本陸軍が統帥権の独立を図ったという。
天皇以外には陸海軍を統一する機関・組織が全く存在しなかった。
そして天皇ご自身は、立憲国の君主として、政府と統帥部との一致した意見は認めなければならないというお考えで、時に忠告くらいはしたものの、基本的に口出しはしなかった。
誰も陸海軍を束ねる者はいなかったことになる。
日本はまるでその反省がない。
また統帥権をあいまいにしたまま、中国と戦争をしようとしている。
出水郡はどうして秀吉の直轄地だったか ― 2017/10/31
昨日、対馬を治める宗義智が、 文禄の役の功により、秀吉の蔵入地(直轄地)である薩摩の出水郡1万石を与えられたと書いた。
では、そもそもどうして薩摩の出水郡が秀吉の直轄地となっていたか。
鹿児島人としては気になり、調べてみた。
島津忠辰(ただとき)は、島津氏の分家・薩州家7代当主。
文禄2年(1593年)、朝鮮出兵の際、本家の島津義弘について出兵することになっていたが、義弘と陣立を別にしてくれるよう秀吉に直訴した。
秀吉は願いを聞き入れなかったため、忠辰はやむなく義弘と共に玄界灘を渡ったものの病気と称して上陸しなかった。
この行動は秀吉の激怒をかい、同年5月1日、肥後宇土城主の小西行長に身柄を預けられ幽閉された上で改易を申し渡された。それからほどなくして、朝鮮加徳島の小西陣中にて病死した。享年28。
薩州家が断絶すると、薩州家の領地であった出水郡・高城郡(薩摩川内市の一部)は秀吉の直轄領となった。そのうち高尾野、野田、脇本、長島は対馬宗氏に与えられた。
その後、慶長の役での島津氏の活躍による恩賞として慶長4年(1599)に島津氏に返還された。
宗氏は代わりに田代領をもらったというわけである。
では、そもそもどうして薩摩の出水郡が秀吉の直轄地となっていたか。
鹿児島人としては気になり、調べてみた。
島津忠辰(ただとき)は、島津氏の分家・薩州家7代当主。
文禄2年(1593年)、朝鮮出兵の際、本家の島津義弘について出兵することになっていたが、義弘と陣立を別にしてくれるよう秀吉に直訴した。
秀吉は願いを聞き入れなかったため、忠辰はやむなく義弘と共に玄界灘を渡ったものの病気と称して上陸しなかった。
この行動は秀吉の激怒をかい、同年5月1日、肥後宇土城主の小西行長に身柄を預けられ幽閉された上で改易を申し渡された。それからほどなくして、朝鮮加徳島の小西陣中にて病死した。享年28。
薩州家が断絶すると、薩州家の領地であった出水郡・高城郡(薩摩川内市の一部)は秀吉の直轄領となった。そのうち高尾野、野田、脇本、長島は対馬宗氏に与えられた。
その後、慶長の役での島津氏の活躍による恩賞として慶長4年(1599)に島津氏に返還された。
宗氏は代わりに田代領をもらったというわけである。
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