イケメン埴輪2023/03/20


私も佐賀市の肥前国庁跡資料館で見かけて、惹かれました。

朝鮮系無文土器の意味2023/03/08

朝鮮系無文土器についてはあまり触れたくもないが、図の中にもろにわが地元が出てくるので看過はできない。
1~4と12である。

しかし、過大に評価する必要はないようだ。

公開講座では、吉野ヶ里遺跡から出た朝鮮系無文土器は破片を併せても40~50点で、国産土器の圧倒的な数に比べればごく少数である。出土は遺跡の南側に集中し、北側ではあまり出ていないということだった。

南に行くほど身分の低い人たちが住んでいたので、そういう理由でしょう。

しかし、弥生時代にそんなに渡来人が来たものだろうか。

4世紀(古墳時代)なら、倭は朝鮮に何度も出兵しているので亡命も多かっただろうが。

東墳丘墓にも行こう!2023/03/06

吉野ヶ里歴史公園に入る時もらったマップ。

そこに「東墳丘墓」があるのに気づいた。これは…?

東口建物の南、大駐車場の南西角である。

係員に聞いてみると、皆知らないらしく、だいぶ時間がかかった。
ようやく分かったものの、「行かれても、そんな…」と何もないという口ぶり。
公園の人もボランティアもろくに行ったことがないらしい。

北墳丘墓を見て、そのあと弥生くらし館での講座を聞いての帰り、寄ってみた。

説明によると、どうやら「東墳丘墓」はマスコミが勝手に付けたと言わんばかり。だから、公園の人たちも舐めてるわけか。

しかし、墳丘を目にした途端、これは馬鹿にしたもんじゃない‼と思った。

そして墳頂に立つと、パワースポット的な〝何か〟を感じた。
訪れる人が少ないだけに、甕棺の死者たちの念がまだ衰えていないのだ。
吉野ヶ里歴史公園に行ったらぜひ訪ねてみてほしい。

吉野ヶ里遺跡北墳丘墓⑥2023/03/06

この墓道の案内も最近までなかった。

というのも、昨年10月9日、発掘体験の場所に行くのに通ったから知っているのだ。

今、吉野ヶ里では、北墳丘墓近くの神社が立ち退いたことでその跡地を発掘調査しているが、その発掘体験ができるというので喜んで申し込み、やって来たものの現場が分からず、さ迷った揚げ句、えーいここを行っちゃえと駆け下りたのが、ここだったのだ。
まさか墓道だったとはね。

その日は雨で、発掘体験は私たちの順番となる直前で中止となった…。

吉野ヶ里遺跡北墳丘墓⑤2023/03/06

オベリスクかっ⁉

北墳丘墓の南側。
以前はなかったはず。

「祖霊の宿る柱」だという。

柱穴が一つ見つかったからと言って、そこまで言い切っていいのかなーとは思うが。

案内板より、ホームページの説明のほうが良い。

「立柱の穴跡は径1.4~1.8m、深さ1.1mでした。このことから、立柱の径は50㎝、地上部は概ね7mであったと推定されました。諏訪大社の御柱等の民族事例を参考に、彫刻のないまっすぐな柱として復元しました。」

なるほど。御柱を参考にしたのはいいかもしれない。

吉野ヶ里遺跡北墳丘墓④2023/03/06

どうして北墳丘墓が、歴代の首長など高い身分の人たちのものと考えられるのか、よく説明されている。

甕棺墓列は以前は自由に歩き回れたが、今は公開していないようだ。

吉野ヶ里遺跡北墳丘墓③2023/03/06

現在の立派な墳丘は、築造当時のものではない。

クリックして拡大してもらえば、写真右に「発掘時の地形」と「復元時の墳丘形状」とあるのが分かるでしょう。