「危機の宰相」たり得るか ― 2022/06/26
岸田総理は2月14日にロシアがウクライナに侵攻するとすぐ「侵略」だと断じてロシアを非難し、ウクライナへの支持を表明した。
このロシアに対する毅然とした強気の姿勢には、いい意味で驚いた。
この素早く明確な意思表明は、岸田さん以外にも可能だっただろうか。
そうは思わない。
日本の首相は国際問題で、世界に先駆けて態度を表明することなど今までなかったのだ。
保守層に今でも人気の高い安倍元総理でも、こうはいかなかっただろう。
何しろ安倍さんはロシアのプーチン大統領と22回も首脳会談をやって、けっきょく手のひらの上で転がされただけだった。
また、2020年春に中国の習近平国家主席を国賓として招こうとしたように、党内の親中派に配慮するなど脇が甘いところがある。
その点、今回、フランスの外交シンクタンクの研究員は「日本の変化に驚いた」という(一昨日24日付産経新聞)。
迅速にロシアへの制裁を決め、ウクライナには自衛隊の装備品を送った。
また、首相は防衛費の「相当な増額」を表明。
選挙中にもかかわらずNATOの首脳会議に出席するという。
※そして速報だが、NATO首脳会議に同じく参加する韓国大統領と会談はしない、略式会談(立ち話)もやらないという。
これは徴用工訴訟や慰安婦問題などで韓国側が具体的な解決策を示していないからで、日本の尊厳と国益を護る会(青山繫晴代表)の申し入れに対しても力強く約束していた通りだ。素晴らしい。
実はこの未曾有の危機の時代に、岸田首相でよかったのかもしれない。
あとは憲法改正で自衛隊を明記し、原発再稼働を強力に推進してくれれば言うことはない。
やってくれると信じている。
このロシアに対する毅然とした強気の姿勢には、いい意味で驚いた。
この素早く明確な意思表明は、岸田さん以外にも可能だっただろうか。
そうは思わない。
日本の首相は国際問題で、世界に先駆けて態度を表明することなど今までなかったのだ。
保守層に今でも人気の高い安倍元総理でも、こうはいかなかっただろう。
何しろ安倍さんはロシアのプーチン大統領と22回も首脳会談をやって、けっきょく手のひらの上で転がされただけだった。
また、2020年春に中国の習近平国家主席を国賓として招こうとしたように、党内の親中派に配慮するなど脇が甘いところがある。
その点、今回、フランスの外交シンクタンクの研究員は「日本の変化に驚いた」という(一昨日24日付産経新聞)。
迅速にロシアへの制裁を決め、ウクライナには自衛隊の装備品を送った。
また、首相は防衛費の「相当な増額」を表明。
選挙中にもかかわらずNATOの首脳会議に出席するという。
※そして速報だが、NATO首脳会議に同じく参加する韓国大統領と会談はしない、略式会談(立ち話)もやらないという。
これは徴用工訴訟や慰安婦問題などで韓国側が具体的な解決策を示していないからで、日本の尊厳と国益を護る会(青山繫晴代表)の申し入れに対しても力強く約束していた通りだ。素晴らしい。
実はこの未曾有の危機の時代に、岸田首相でよかったのかもしれない。
あとは憲法改正で自衛隊を明記し、原発再稼働を強力に推進してくれれば言うことはない。
やってくれると信じている。
鹿児島県立戦争博物館を!(続き) ― 2022/06/10
今春、北九州市小倉北区に戦争をテーマにした「平和のまちミュージアム」が開館した。
これは大いに参考になるだろう。
https://www.kitakyushu-peacemuseum.jp/index.php
私も近く行ってみるつもりだ。
また、今春から高校の必修科目「歴史総合」がスタートした。
これまで別々だった世界史Aと日本史Aを融合させて、近現代史を学ぼうというものだ。
なぜか始まってみての評判を聞かないが、近現代史といえば戦争は切り離せない。どころかメーンテーマと言っていい。
どう教えているのか、非常に興味深いところだ。
この点からも戦争博物館で学校の授業を補完する意味は大きい。
これは大いに参考になるだろう。
https://www.kitakyushu-peacemuseum.jp/index.php
私も近く行ってみるつもりだ。
また、今春から高校の必修科目「歴史総合」がスタートした。
これまで別々だった世界史Aと日本史Aを融合させて、近現代史を学ぼうというものだ。
なぜか始まってみての評判を聞かないが、近現代史といえば戦争は切り離せない。どころかメーンテーマと言っていい。
どう教えているのか、非常に興味深いところだ。
この点からも戦争博物館で学校の授業を補完する意味は大きい。
鹿児島県立戦争博物館を! ― 2022/06/09
鹿児島県の「知事へのたより」と、所管の文化財課に次の提案を送った。
旧考古資料館の保存活用として「戦争博物館」を提案します
前略
閉館中の旧鹿児島県立博物館考古資料館について現在、保存活用が検討されているようです。
今週それを知り、公開されている保存活用計画にざっと目を通しましたが、整備内容等の検討は令和8年度以降ということで、まだ間に合うのではないかと取り急ぎ提言いたします。
それは薩英戦争(1863年)から太平洋戦争に至る、近現代80年余りの「県立戦争博物館」にしてはどうだろうかということです。
まず第一に、類似の施設がありません。個別には知覧特攻平和会館等いくつかありますが、鹿児島が関わってきた幾多の戦争、その全体をテーマとする施設はありません。
今、ダークツーリズムといって、歴史上の「負の遺産」も積極的に見ようという動きがあります。また、進行中のウクライナ戦争によって国民全体の戦争への関心が高まっていることは言うまでもありません。
西南戦争については熊本の激戦地田原坂に立派な資料館がありますが、肝心の鹿児島には何一つありません。
西郷軍終焉の地、鹿児島市城山町にある本館はまことにふさわしいのではないでしょうか。
日清戦争では大山巌が陸軍の司令官。連合艦隊初代司令長官の伊東祐亨も薩摩出身です。
日露戦争では大山巌が引き続き陸軍を指揮し、そして海軍は何と言っても東郷平八郎です。日本海海戦でバルチック艦隊を破って世界を驚かせました。
姶良市にある日露戦争の凱旋門は国の登録有形文化財で、全国で二つしか残っていないうちの一つです。静岡県浜松市の凱旋門はレンガ造りで、姶良市のものは現存する唯一の石造凱旋門といわれています。
太平洋戦争の真珠湾攻撃では、鹿児島湾(錦江湾)が飛行機の突入訓練に使われたのは有名な話です。
特攻隊は鹿児島の知覧、万世、鹿屋、串良から飛び立ちました。戦艦大和の慰霊も毎年、枕崎や徳之島で行われています。
鹿児島市加治屋町の甲突河畔に、「沖縄軍司令官 牛島満大将生い立ちの碑」が建っています。
沖縄戦で自決した最後の陸軍大将で、最初の陸軍大将である西郷隆盛を崇拝し、「今西郷」と呼ばれていたそうです。
鹿児島大空襲は昭和20年に計8回、死者3,329人、負傷者4,633人の被害を出しました。鹿児島女子興業の「教務日誌」に空襲の様子が書かれていたと昨年話題になりましたが、調査結果が待たれます。
以上、ざっと挙げただけでもこれだけの後世に伝えるべき史実があります。ぜひ戦争博物館の開設を検討下さるようお願いいたします。
旧考古資料館の保存活用として「戦争博物館」を提案します
前略
閉館中の旧鹿児島県立博物館考古資料館について現在、保存活用が検討されているようです。
今週それを知り、公開されている保存活用計画にざっと目を通しましたが、整備内容等の検討は令和8年度以降ということで、まだ間に合うのではないかと取り急ぎ提言いたします。
それは薩英戦争(1863年)から太平洋戦争に至る、近現代80年余りの「県立戦争博物館」にしてはどうだろうかということです。
まず第一に、類似の施設がありません。個別には知覧特攻平和会館等いくつかありますが、鹿児島が関わってきた幾多の戦争、その全体をテーマとする施設はありません。
今、ダークツーリズムといって、歴史上の「負の遺産」も積極的に見ようという動きがあります。また、進行中のウクライナ戦争によって国民全体の戦争への関心が高まっていることは言うまでもありません。
西南戦争については熊本の激戦地田原坂に立派な資料館がありますが、肝心の鹿児島には何一つありません。
西郷軍終焉の地、鹿児島市城山町にある本館はまことにふさわしいのではないでしょうか。
日清戦争では大山巌が陸軍の司令官。連合艦隊初代司令長官の伊東祐亨も薩摩出身です。
日露戦争では大山巌が引き続き陸軍を指揮し、そして海軍は何と言っても東郷平八郎です。日本海海戦でバルチック艦隊を破って世界を驚かせました。
姶良市にある日露戦争の凱旋門は国の登録有形文化財で、全国で二つしか残っていないうちの一つです。静岡県浜松市の凱旋門はレンガ造りで、姶良市のものは現存する唯一の石造凱旋門といわれています。
太平洋戦争の真珠湾攻撃では、鹿児島湾(錦江湾)が飛行機の突入訓練に使われたのは有名な話です。
特攻隊は鹿児島の知覧、万世、鹿屋、串良から飛び立ちました。戦艦大和の慰霊も毎年、枕崎や徳之島で行われています。
鹿児島市加治屋町の甲突河畔に、「沖縄軍司令官 牛島満大将生い立ちの碑」が建っています。
沖縄戦で自決した最後の陸軍大将で、最初の陸軍大将である西郷隆盛を崇拝し、「今西郷」と呼ばれていたそうです。
鹿児島大空襲は昭和20年に計8回、死者3,329人、負傷者4,633人の被害を出しました。鹿児島女子興業の「教務日誌」に空襲の様子が書かれていたと昨年話題になりましたが、調査結果が待たれます。
以上、ざっと挙げただけでもこれだけの後世に伝えるべき史実があります。ぜひ戦争博物館の開設を検討下さるようお願いいたします。
鹿児島市に戦争博物館を ― 2022/06/08
個人的には、珈琲、お茶が飲めたり、ケーキやイタリアンが食べられたり、日替わりでいろんなお店が入ったら、飽きないし、面白いと思う。
— 番兵 #鹿児島を盛り上げ隊 (@bampei8181) June 6, 2022
景色も綺麗だし。
テナント料を修繕費の一部に回せば、日本でも数少ない石造建築を後世に残せるのに…誰かお偉いさんにと届かないかな〜この想い🤔#鹿児島 pic.twitter.com/8ES37SO3kN
旧鹿児島県立博物館考古資料館。
鹿児島市城山町にある(照國神社至近)。
明治16年(1883年)建築。県内では尚古集成館(鹿児島市吉野町)に次いで古い。石造。
私が子供の頃は県立博物館だった(昭和28年~同55年)。
昭和56年から県立博物館考古資料館となるが、平成14年に閉館し、そのままになっている。
現在、保存活用が検討されているようだが、西南戦争から太平洋戦争までの戦争博物館にしてはどうだろうか。
西南戦争については熊本の激戦地田原坂に立派な資料館があるが、肝心の鹿児島には何一つない。
日清・日露戦争では鹿児島出身の大山巌や東郷平八郎が大活躍している。
また、太平洋戦争の真珠湾攻撃では、鹿児島湾(錦江湾)が飛行機の突入訓練に使われたのは有名な話だ。
特攻隊は鹿児島の知覧、万世、鹿屋から飛び立った。
沖縄戦の司令官は鹿児島出身の牛島満大将。
最後の陸軍大将である(最初の陸軍大将は西郷隆盛)。
これまでなら戦争嫌いの連中から「けっ」と言われただろうが、ロシア・ウクライナ戦争で国防意識の高まっている時である。
今でしょ。
昭和天皇は戦争を指導したか? ― 2022/04/24
ウクライナ政府の公式アカウントが昭和天皇とヒトラーとムソリーニの顔を並べて、「ファシズムとナチズムは1945年に敗北した」と発信したというのでちょっとした騒ぎになっている。
しかし、日本人の中にも「表現の不自由展」と称して、昭和天皇の顔を燃やして侮辱するような馬鹿者がいるから、世界にこんな誤解が広まるのだ。
そこで、あらためて昭和天皇が先の大戦時にどういう立場でおられたか、つまり国家や軍を指導する立場におられたのかどうかを見てみたい。
まず、昭和3(1928)年6月4日、関東軍参謀の河本大作大佐らが張作霖を奉天近郊で列車ごと爆破したときのこと(このとき天皇は27歳)。
田中義一総理大臣は天皇に対し、この事件は甚だ遺憾で、河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表するつもりだと説明した。
ところが、閣議では、日本の立場上、処罰は不得策だという意見が強かったため、田中は天皇にこの問題はうやむやのうちに葬りたいと言ってきた。
天皇は、それでは前と違う、辞表を出すようにと厳しく言った。
このため田中首相は辞表を提出して総辞職した。
この一件は、昭和天皇が軍の暴走に反対だったことを示すものだが、天皇自身は首相に辞表を提出させたことを反省し、これ以降は内閣が上奏して来たものは内心反対でも裁可を与えることを心に誓った。
しかし、その後も軍の暴走は続き、天皇は黙ってばかりもいられなかった。
昭和7(1932)年1月28日、上海で共同租界警備の日本海軍陸戦隊と中国十九路軍との間に戦闘が勃発した(いわゆる第一次上海事変)。
天皇はこれを憂慮し、白川義則陸軍大将を上海派遣軍司令官とする2月25日の親補式で、天皇は白川に直接、事件の不拡大を命じた。
上海から十九路軍を撃退したら、決して深追いしてはならない。3月3日の国際連盟総会までに何とか停戦してほしいと念を押した。
白川は天皇の信頼に応え、3月3日、参謀本部の反対を押し切って停戦を断行した。これで国連総会の険悪な空気は一挙に好転した。
次は昭和11年の二・二六事件における、叛軍に対する討伐命令だ。
これは一般に重臣・腹心を殺された天皇の怒りと解釈されている。
もちろんそれもあったろうが、日本経済に与える影響を心配されたという興味深い側面がある。
町田忠治・大蔵大臣が金融面の悪影響を非常に心配して、断然たる処置を取らないとパニック(恐慌のことか)が起こると忠告してくれたので、強硬に討伐命令を出すことができたという(『昭和天皇独白録』)。
4番目は昭和20年、小磯国昭首相が中国人スパイの繆斌(みょう・ひん)を通じて日支和平を図ろうとした問題である。
天皇は、一国の首相が謀略を行うことは、たとえ成功しても国際信義を失うし、不成功の場合は物笑いになると考え、小磯を呼んでこういう不審な男と交渉することは困ると釘を刺した。
小磯は繆斌との交渉を打ち切った。
そして最後は終戦の御聖断である。
以上、昭和天皇が政府や軍に口出しをしたのはおよそ5度しかない。
しかも、平和のための意見はしても、戦争の指導は一切していないのである。
しかし、日本人の中にも「表現の不自由展」と称して、昭和天皇の顔を燃やして侮辱するような馬鹿者がいるから、世界にこんな誤解が広まるのだ。
そこで、あらためて昭和天皇が先の大戦時にどういう立場でおられたか、つまり国家や軍を指導する立場におられたのかどうかを見てみたい。
まず、昭和3(1928)年6月4日、関東軍参謀の河本大作大佐らが張作霖を奉天近郊で列車ごと爆破したときのこと(このとき天皇は27歳)。
田中義一総理大臣は天皇に対し、この事件は甚だ遺憾で、河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表するつもりだと説明した。
ところが、閣議では、日本の立場上、処罰は不得策だという意見が強かったため、田中は天皇にこの問題はうやむやのうちに葬りたいと言ってきた。
天皇は、それでは前と違う、辞表を出すようにと厳しく言った。
このため田中首相は辞表を提出して総辞職した。
この一件は、昭和天皇が軍の暴走に反対だったことを示すものだが、天皇自身は首相に辞表を提出させたことを反省し、これ以降は内閣が上奏して来たものは内心反対でも裁可を与えることを心に誓った。
しかし、その後も軍の暴走は続き、天皇は黙ってばかりもいられなかった。
昭和7(1932)年1月28日、上海で共同租界警備の日本海軍陸戦隊と中国十九路軍との間に戦闘が勃発した(いわゆる第一次上海事変)。
天皇はこれを憂慮し、白川義則陸軍大将を上海派遣軍司令官とする2月25日の親補式で、天皇は白川に直接、事件の不拡大を命じた。
上海から十九路軍を撃退したら、決して深追いしてはならない。3月3日の国際連盟総会までに何とか停戦してほしいと念を押した。
白川は天皇の信頼に応え、3月3日、参謀本部の反対を押し切って停戦を断行した。これで国連総会の険悪な空気は一挙に好転した。
次は昭和11年の二・二六事件における、叛軍に対する討伐命令だ。
これは一般に重臣・腹心を殺された天皇の怒りと解釈されている。
もちろんそれもあったろうが、日本経済に与える影響を心配されたという興味深い側面がある。
町田忠治・大蔵大臣が金融面の悪影響を非常に心配して、断然たる処置を取らないとパニック(恐慌のことか)が起こると忠告してくれたので、強硬に討伐命令を出すことができたという(『昭和天皇独白録』)。
4番目は昭和20年、小磯国昭首相が中国人スパイの繆斌(みょう・ひん)を通じて日支和平を図ろうとした問題である。
天皇は、一国の首相が謀略を行うことは、たとえ成功しても国際信義を失うし、不成功の場合は物笑いになると考え、小磯を呼んでこういう不審な男と交渉することは困ると釘を刺した。
小磯は繆斌との交渉を打ち切った。
そして最後は終戦の御聖断である。
以上、昭和天皇が政府や軍に口出しをしたのはおよそ5度しかない。
しかも、平和のための意見はしても、戦争の指導は一切していないのである。
国家的危機に何をすればいいのか ― 2022/04/01
細谷雄一慶大教授が一昨日の産経新聞一面に、「日本の世論で『ウクライナが降伏すべきだ』との意見が強いのは驚きだ」と書いていた。
本当は世論ではなく、橋下徹のことなんだろうが、名指しを避けたのだろう。
降伏論が出てくる背景として、主に2点を挙げている。
まず、戦後の平和教育の悪弊。これはその通りだろう。
もう一つは、戦後の米国による日本の占領は平和的で協調的なものだったため、ウクライナがロシアの占領下でも平和に生存していけると考えるからだという。
これも概ねその通りだろう。
ただ、どうして米国の占領が「平和的で協調的」だったのかは、少々付け加える必要があるだろう。
日本占領の最高司令官が、実際に日本との激しい戦いを経験したマッカーサーだったことが大きい。
マッカーサーは日本軍の強さを十分に知っており、その精神的支柱であった天皇陛下がどんな人物か興味津々だっただろう。
マッカーサーはどの国の指導者もそうであるように、天皇が言い訳をして責任逃れをすると思っていた。
ところが、陛下は自分がすべての責任を負うので国民を助けてほしいと言われたのだ。
マッカーサーは驚いて、この天皇を廃してしまっては日本の統治は絶対にうまくいかないことを悟ったのだ。
こうして急ぎ新憲法草案をまとめ、天皇の地位を保証したのだった。
もしソ連や中国が占領の責任者だったらこうはいかなかった。
天皇制は廃止され、日本は分割統治されて、いまだに占領されたままだっただろう。
つまり、ここだ。
ウクライナがロシアに降伏したら、国土はもう返ってこない。
これは他人事ではない。
中国は今、台湾・尖閣を狙っている。
ロシアも北方領土の実効支配を進め、完全なる自国領だと宣言するだろう。
それどころか、中国とロシアは共同して北海道に攻め入るだろう。
その布石はすでに進んでいる。
中国人は北海道の土地を買い漁って、そこは実質的に治外法権となっている。
ロシアはアイヌ人を救うという荒唐無稽なストーリーをでっち上げようとしている。
また、ロシア・中国の友好国である韓国・北朝鮮は日本のマスコミや政界に浸透して日々、反日プロパガンダをおこなっている。
ウクライナ問題は明日の日本なのだ。
この国家的危機に何をすればいいのか。
記者を長年やってきたものの、政治活動などは未経験。
何かをしたいが、残念ながらやり方が分からない。
有志の方に教えてもらいたい。
本当は世論ではなく、橋下徹のことなんだろうが、名指しを避けたのだろう。
降伏論が出てくる背景として、主に2点を挙げている。
まず、戦後の平和教育の悪弊。これはその通りだろう。
もう一つは、戦後の米国による日本の占領は平和的で協調的なものだったため、ウクライナがロシアの占領下でも平和に生存していけると考えるからだという。
これも概ねその通りだろう。
ただ、どうして米国の占領が「平和的で協調的」だったのかは、少々付け加える必要があるだろう。
日本占領の最高司令官が、実際に日本との激しい戦いを経験したマッカーサーだったことが大きい。
マッカーサーは日本軍の強さを十分に知っており、その精神的支柱であった天皇陛下がどんな人物か興味津々だっただろう。
マッカーサーはどの国の指導者もそうであるように、天皇が言い訳をして責任逃れをすると思っていた。
ところが、陛下は自分がすべての責任を負うので国民を助けてほしいと言われたのだ。
マッカーサーは驚いて、この天皇を廃してしまっては日本の統治は絶対にうまくいかないことを悟ったのだ。
こうして急ぎ新憲法草案をまとめ、天皇の地位を保証したのだった。
もしソ連や中国が占領の責任者だったらこうはいかなかった。
天皇制は廃止され、日本は分割統治されて、いまだに占領されたままだっただろう。
つまり、ここだ。
ウクライナがロシアに降伏したら、国土はもう返ってこない。
これは他人事ではない。
中国は今、台湾・尖閣を狙っている。
ロシアも北方領土の実効支配を進め、完全なる自国領だと宣言するだろう。
それどころか、中国とロシアは共同して北海道に攻め入るだろう。
その布石はすでに進んでいる。
中国人は北海道の土地を買い漁って、そこは実質的に治外法権となっている。
ロシアはアイヌ人を救うという荒唐無稽なストーリーをでっち上げようとしている。
また、ロシア・中国の友好国である韓国・北朝鮮は日本のマスコミや政界に浸透して日々、反日プロパガンダをおこなっている。
ウクライナ問題は明日の日本なのだ。
この国家的危機に何をすればいいのか。
記者を長年やってきたものの、政治活動などは未経験。
何かをしたいが、残念ながらやり方が分からない。
有志の方に教えてもらいたい。
日本も「本土決戦」していれば…? ― 2022/03/24
ロシアの宣戦布告なき侵略から一か月、ウクライナが持ちこたえている。
日本も太平洋戦争末期、本土決戦を目前にしていた。
正確な数字は本を引っ張り出さなければいけないが、海軍は壊滅していたとはいえ、日本本土の陸軍は数十万、飛行機もまだ2千機は温存されていたのである。
国民もほとんどは士気が高く、本土決戦を覚悟していた。
だが、原爆2発とソ連の中立条約違反の参戦で、降伏を余儀なくされた。
もし本土決戦をやっていたら、相当に長期戦になっていたと想像できるのは2月28日に取り上げた、八原博通『沖縄決戦』によってである。
https://restart.asablo.jp/blog/2022/02/28/9468113
沖縄決戦もまた、本土決戦である。
沖縄は内地(本州、四国、九州、北海道・千島、沖縄)に他ならないからだ。
沖縄は八原の立案した「戦略持久戦」によって、三か月持ちこたえた。
しかも中央からの攻勢要求によって不要な消耗をしてのこの結果であって、「終始一貫した戦略持久戦を遂行していたら、はるかにもっとよく戦えた」と八原は振り返っている。
ウクライナは攻勢は求めていないようだ。
そうなると、まだまだ持久戦は続くだろう。
そのとき懸念されるのは、業を煮やしたプーチンが核を使うということだ。
プーチンの頭の中には当然、日本の降伏があるだろう。
プーチンが思慕してやまないソ連こそが、広島への原爆投下を見てから参戦し漁夫の利を得たのだから。
歴史は繰り返してはならない。この戦争にロシアが、プーチンが勝ってはならない。
日本も太平洋戦争末期、本土決戦を目前にしていた。
正確な数字は本を引っ張り出さなければいけないが、海軍は壊滅していたとはいえ、日本本土の陸軍は数十万、飛行機もまだ2千機は温存されていたのである。
国民もほとんどは士気が高く、本土決戦を覚悟していた。
だが、原爆2発とソ連の中立条約違反の参戦で、降伏を余儀なくされた。
もし本土決戦をやっていたら、相当に長期戦になっていたと想像できるのは2月28日に取り上げた、八原博通『沖縄決戦』によってである。
https://restart.asablo.jp/blog/2022/02/28/9468113
沖縄決戦もまた、本土決戦である。
沖縄は内地(本州、四国、九州、北海道・千島、沖縄)に他ならないからだ。
沖縄は八原の立案した「戦略持久戦」によって、三か月持ちこたえた。
しかも中央からの攻勢要求によって不要な消耗をしてのこの結果であって、「終始一貫した戦略持久戦を遂行していたら、はるかにもっとよく戦えた」と八原は振り返っている。
ウクライナは攻勢は求めていないようだ。
そうなると、まだまだ持久戦は続くだろう。
そのとき懸念されるのは、業を煮やしたプーチンが核を使うということだ。
プーチンの頭の中には当然、日本の降伏があるだろう。
プーチンが思慕してやまないソ連こそが、広島への原爆投下を見てから参戦し漁夫の利を得たのだから。
歴史は繰り返してはならない。この戦争にロシアが、プーチンが勝ってはならない。
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