昭和天皇は戦争を指導したか?2022/04/24

ウクライナ政府の公式アカウントが昭和天皇とヒトラーとムソリーニの顔を並べて、「ファシズムとナチズムは1945年に敗北した」と発信したというのでちょっとした騒ぎになっている。

しかし、日本人の中にも「表現の不自由展」と称して、昭和天皇の顔を燃やして侮辱するような馬鹿者がいるから、世界にこんな誤解が広まるのだ。

そこで、あらためて昭和天皇が先の大戦時にどういう立場でおられたか、つまり国家や軍を指導する立場におられたのかどうかを見てみたい。

まず、昭和3(1928)年6月4日、関東軍参謀の河本大作大佐らが張作霖を奉天近郊で列車ごと爆破したときのこと(このとき天皇は27歳)。

田中義一総理大臣は天皇に対し、この事件は甚だ遺憾で、河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表するつもりだと説明した。
ところが、閣議では、日本の立場上、処罰は不得策だという意見が強かったため、田中は天皇にこの問題はうやむやのうちに葬りたいと言ってきた。
天皇は、それでは前と違う、辞表を出すようにと厳しく言った。
このため田中首相は辞表を提出して総辞職した。

この一件は、昭和天皇が軍の暴走に反対だったことを示すものだが、天皇自身は首相に辞表を提出させたことを反省し、これ以降は内閣が上奏して来たものは内心反対でも裁可を与えることを心に誓った。

しかし、その後も軍の暴走は続き、天皇は黙ってばかりもいられなかった。

昭和7(1932)年1月28日、上海で共同租界警備の日本海軍陸戦隊と中国十九路軍との間に戦闘が勃発した(いわゆる第一次上海事変)。

天皇はこれを憂慮し、白川義則陸軍大将を上海派遣軍司令官とする2月25日の親補式で、天皇は白川に直接、事件の不拡大を命じた。
上海から十九路軍を撃退したら、決して深追いしてはならない。3月3日の国際連盟総会までに何とか停戦してほしいと念を押した。
白川は天皇の信頼に応え、3月3日、参謀本部の反対を押し切って停戦を断行した。これで国連総会の険悪な空気は一挙に好転した。

次は昭和11年の二・二六事件における、叛軍に対する討伐命令だ。
これは一般に重臣・腹心を殺された天皇の怒りと解釈されている。
もちろんそれもあったろうが、日本経済に与える影響を心配されたという興味深い側面がある。

町田忠治・大蔵大臣が金融面の悪影響を非常に心配して、断然たる処置を取らないとパニック(恐慌のことか)が起こると忠告してくれたので、強硬に討伐命令を出すことができたという(『昭和天皇独白録』)。

4番目は昭和20年、小磯国昭首相が中国人スパイの繆斌(みょう・ひん)を通じて日支和平を図ろうとした問題である。

天皇は、一国の首相が謀略を行うことは、たとえ成功しても国際信義を失うし、不成功の場合は物笑いになると考え、小磯を呼んでこういう不審な男と交渉することは困ると釘を刺した。
小磯は繆斌との交渉を打ち切った。

そして最後は終戦の御聖断である。

以上、昭和天皇が政府や軍に口出しをしたのはおよそ5度しかない。
しかも、平和のための意見はしても、戦争の指導は一切していないのである。

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