東條英機宣誓供述書を読む2018/01/10

関野通夫著『日本人を狂わせた洗脳工作 いまなお続く占領軍の心理作戦 』(自由社ブックレット)が暴いた、War Guilt Information Program。

GHQが最も警戒し言論統制したのは、東條英機の「東京裁判は復讐劇だ」という反論と、原爆投下が残虐行為として非難されることの2点だった、と繰り返し出てくる。

そうなると当然、東條英機の言い分を知りたくなる。
それには、川道麟太郎『西郷隆盛――手紙で読むその実像」(ちくま新書)で学んだように一次史料に限る。

「東條英機宣誓供述書」のコビーが手元にあった。
国立国会図書館デジタルコレクションから誰でも無料で印刷できる。
どこかで「これは読むべき」と推奨してあったので、印刷していたものだ。

昭和23年1月20日発行されたもので、170ページ余ある。
編者(東京裁判研究会)によると、東條英機が東京裁判開廷以来、20カ月克明にメモを取り続けて完成した十数冊のノートを基礎とし、弁護人清瀬一郎、ブルーエットの両氏が9カ月にわたって稿を改め、文字通り三者の心血を注いで、昭和22年12月26日の法廷に提出されたものだという。

これも一次史料である『昭和天皇独白録』(昭和21年の3月から4月にかけて、寺崎英成ら5人の側近が昭和天皇から聞き取ったもの。文藝春秋刊)を横に置いて適宜参照し、熟読した。

まず、別々に語られた東條英機と昭和天皇の認識がよく合致し、信頼に足る供述であることが分かる。

驚くべきことに、統帥部は隣国に対する「作戦計画」は持っていたが、統帥部も政府もともに「戦争計画」は持っていなかった、と東條は言う。
これは①統帥独立の理論に基づく、政府と統帥機関の分立②陸軍と海軍が画然と分かれている③陸軍と海軍とが目標を異にしている――ためで、戦争計画を作成するのは不可能だったというのだ。

「統帥」とは現代の我々には分かりにくいので、説明が必要だろう。
『「昭和戦前期の日本」事典』(吉川弘文館)によると、軍を一つの意志にもとづいて指揮運用する「軍令」の権を統帥権という。
統帥権は、内閣制度の国では当然内閣が持つのだが、プロイセン(ドイツ)が統帥権を政府から独立させ、首相は関与しないという慣行を確立させており、プロイセンを範とした陸軍が統帥権の独立を図ったという。
そして、天皇以外には陸海軍を統一する機関・組織が全く存在しなかった(天皇も「陸海軍の不一致」を敗戦の四原因の一つとしている)。

「大本営」も我々のイメージとは違う。
昭和12年に大本営ができても、同一場所で勤務したわけではなく、参謀本部に大本営陸軍部、軍令部に大本営海軍部の看板を並べただけだったという。

東條の供述に戻ると、事実上の戦争計画がなかったのだから、いわんや太平洋戦を目標とする恒久的戦争計画は夢想だにしていなかったという。アメリカのいわゆるオレンジプランのようなものは、日本にはなかったのだ!

日本は極力米英戦を避けようとしたが、昭和16年11月26日、米からいわゆる「ハルノート」を突きつけられる。
内容は①日本の陸海軍は警察隊も支那全土(満州を含む)および仏印から無条件に撤兵する②満州国政府の否認③(親日的な)南京国民政府の否認④日独伊三国同盟の死文化――という日本が受け入れられない最後通牒だった。

我々がうさんくさいイメージを植え付けられている「大東亜政策」も、東條がるる述べているのを読むと印象が変わってくる。

大東亜建設には5つの性格がある。
①共存共栄の秩序であり、自己の繁栄のために他民族・他国家を犠牲にするような「旧秩序」とは根本的に異なる。
②親和の関係は相手方の自主独立を尊重し、他の繁栄により自らも繁栄し、もって自他ともに本来の面目を発揮し得る。
③大東亜の文化を高揚すること。大東亜の精神文化は、物質文明の行き詰まりを打開し、人類全般の福祉に寄与する。
④互恵。大東亜は多年列強の搾取の対象となってきたが、今後は経済的にも相寄り相助けてその繁栄を期すべきである。
⑤人種的差別を撤廃し、あまねく文化を興隆し、進んで資源を開放し、もって世界の進運に貢献する。口に自由平等を唱えつつ、他国家他民族に対し抑圧と差別とをもって臨み、自ら膨大なる土地と資源とを独占し、他の生存を脅威して顧みざるごとき、世界全般の進運を阻害するごとき旧秩序であってはならない。

素晴らしい。これはまさに「西郷精神」に他ならない。
今の中国にはこうした崇高な理念はない。

実際、日本が困難な戦争を戦いながら、大東亜政策としてアジア各国にどういうことをしたか、驚くべきものがある。

中国に対しては、昭和17年12月、対支新政策を立て、自ら特権を放棄していった。
18年1月、一切の租界の還付、および治外法権を撤廃。2月、敵国財産を南京政府に移管。10月には日華同盟条約を締結し、昭和15年の日華基本条約で認めていた一切の駐兵権を放棄し、日支事変終了後の全面撤兵を約束した。
昭和18年11月の大東亜会議で、中国代表汪兆銘は感謝の言葉を述べている。

18年8月1日、ビルマの独立を認め、対等の条約を結んだ。

18年10月14日、フィリピンの独立と憲法の制定を認め、対等の同盟条約を結んだ。

18年8月20日、タイがかつてイギリスに奪われた6州をタイ領土に編入する条約を結んだ。これも大東亜会議で、タイの殿下から感謝を述べられている。

インドネシアについては、次の小磯内閣で独立を声明した。

18年10月21日、自由インド仮政府を承認し、全面的に支援した。
大東亜会議では日本が占領中のアンダマン、ニコバル両諸島を同政府に帰属させる用意があると声明した。

以上のことから、日本に領土的野心がなかったのは明らかである。

GHQは昭和20年9月10日にはもう新聞報道を取り締まると発表し、同19日にはプレスコード(報道規制)30項目を定め、新聞・出版物の事前検閲に乗り出した。

削除及び発行禁止対象30項目のうちには、極東国際軍事裁判批判、連合国への批判、連合国の戦前の政策に対する批判、大東亜共栄圏の宣伝などが含まれる。

こうして東條英機の主張は封じられ、今でも大部分の日本人は、日本は侵略戦争をやったと信じている。