「皇后考」が見落とした重大事実2018/11/24

原武史『皇后考』(講談社学術文庫)は650ページを超す大作だ。

大正天皇の皇后である、貞明皇后がテーマ。
歴代で最も有名な皇后である、神功皇后と光明皇后も〝皇后像〟を考える上で重要なファクターとなっている。

私は「三韓征伐」の神功皇后に特に関心があり、この本を手にした。

第一章「序――ある詔書をめぐって」から興味を引く。

大正の終わりである15年(1926年)10月21日、長慶天皇が後村上天皇の次の天皇として皇統譜に加えられ、第98代天皇となったのだ。

明治以降、歴代天皇を確定する作業が進められた(逆に言うと確定していなかったのだ!)。

明治43年(1910)には南北朝正閏(せいじゅん)論争が起こり、翌年、明治天皇の勅裁で南朝を正統とした。

これに伴い、北朝の天皇は認められず、後醍醐天皇以下、後村上天皇、後亀山天皇を歴代に数えることになったが、長慶天皇については「御在位ノ事実」を認めるのに時間がかかったのである。

ところが、この大正15年の詔書には、もう一つの重大な決定について一言も触れられていなかったと筆者は言う。

大正13(1924)年4月、帝室制度審議会総会が宮内大臣に答申した諮問には、まず一番目に神功皇后を皇代に列すべきかどうかを挙げていたのである。
長慶天皇は二番目だった。

ところが、何の説明もないまま、神功皇后は歴代天皇から外された。

その謎について、筆者は微に入り細に入り描き出すが、結局、結論は書かれていない。
しかも、筆者が全く気付いていない点がある。

神功皇后には新羅つまり朝鮮の王族の血が流れていることに一言も言及していないのだ。

「古事記」応神天皇の7にはっきり書いてある。
新羅の王子、天之日矛(あめのひぼこ)が日本に来て日本人との間に子供を作り、その6代目に当たるのが神功皇后である。

かなり遠いとはいえ、朝鮮の血が流れているのには違いない。

皇統に入れられなかったのは、これがまずかったのではないか。
私はそう思うが、どうだろうか。
違っているにしても、原武史氏が全く触れていない、気付いていないらしいのは大きな不満である。

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