相星雅子さん追悼2019/03/13

鹿児島市の小説家、相星雅子さんが亡くなった。
昭和63年(1988)、私が南日本新聞文化部の文芸担当になって以来の付き合いだ。相星さんは西鹿児島駅前で喫茶店をやっていた。私が既婚だと知って、「まあ、娘をあげたのに!」と残念がるほど贔屓にしてくれた。本は好きだったが、鹿児島にも文壇というか文学の世界があるなんて知らなかった私は、相星さんを通じて文芸記者に育ててもらったようなものだ。
私の文芸担当2年目に、相星さんは高岡修さんとともに南日本文学賞を受賞。両氏は名実ともに郷土文壇の顔となっていくのだから、私は幸運だった。
1996年には相星さん主宰の『小説春秋』に誘って下さり、私も下手な小説を4編ほど書いた。地元出版社から最初の本を出したときには鹿児島ペンシルクラブに招かれて講演した。
世の中がまだ「保守・革新」と言っていた頃は、考え方も近かったが、今や「護憲(9条)」にこだわる相星さんとは大きく隔たってしまった。
しかし、満州引き揚げにこだわり続け、ソ連兵の暴虐をはっきりと描いた作品は、作者の意図を超え、真実を明らかにしていた。全国的にも稀有な功績としなければならない。
本日が通夜、明日が葬儀・告別式。会場に『小説春秋』旧同人として、花を送らせていただいた。心からご冥福をお祈りします。

写真は1998年9月8日付で私に送ってくれたもの。
「今年の夏は、計四回も旅行をしました。そのうち最大のものが、旧満州への一週間でした。私は五十二年ぶりに生まれた町と、育まれた町へ行ったのです。旅立つ前も、帰ってからも、心は日々の暮らしから浮き上って、足が地につかない感じ。いつもの長過ぎる夏が、とても短く思えました。いつか作品にできたらと思っています」と手紙にある。

写真の裏には「52年前まで子どもの私が住んでいた家」と書いてある。
つまり、1946年まで暮らし、その後、ここから日本へ引き揚げたのだ。

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