橋本治②2019/02/05

橋本治氏へのインタビューを書きとめた取材ノートには、新聞記事が張り付けてある。

「タウン&キャンパス」というカットが付いているから、若者欄だろう。
その頃、どの新聞にも若者やヤング向けのページがあった。

皮肉っぽい、斜に構えた文体から、朝日新聞だろう。

「幼児語で怪講演」という見出しだ。

橋本治さんといえば、十二年前の東大闘争のとき「止めてくれるなおっ母さん、背中のいちょうが泣いている」の名コピーを生んだ人。最近ではそれよりあの小説『桃尻娘』の著者。その彼が先日、東京で講演会を開いた。
演題は「世界の構造と言語の発生について」というクソオソロシイ?もの。にもかかわらず会場は三百人の若い女の子たちでいっぱい。もっともゲストのロックグループ・パンタ&HALのせいだったかもしれないが。
スター・ウォーズのメロディーに乗って橋本さんは現れた。よれよれ、シワシワの背広姿で。「……んと、んと、んとね」という個性的な幼児語で、人間と言語について、まさしく論理的、原理的に語ったために、それは一層、知的で、不可解な話となった。
その中で彼はいっていた。
「人間の欲望の根元にあるのは幼児なのだから、ぼくは幼児語を使うのだ」と。
このひと近々、「日本語教室」を開講するという。<以上、全文>

伯父は回天特攻隊員だった2019/02/05

拙著『林芙美子が見た大東亜戦争』の「おわりに――伯父は特攻隊員だった」に、山口県周南市の回天記念館で、人間魚雷「回天」の搭乗員名簿を見せてもらい、伯父宮田正春の名前を確認したと書いた。

回天記念館の松本紀是館長は親切な方で、名簿のコピーまで下さった。
著書には載せなかったので、ここで公開したい。

右から二列目、下から四番目に「宮田正春」の名がある。
*は逝去者(平成4・6・10現在)である。
写真はクリックすれば拡大されます。

産経新聞に書籍広告出ました2019/02/06

産経新聞1月30日付3面に、拙著『林芙美子が見た大東亜戦争』の大きな広告が出ました。
よろしくお願いいたします。

正論3月号に書評が出ています2019/02/07

現在発売中の雑誌「正論」(産経新聞社)3月号に、拙著『林芙美子が見た大東亜戦争』の書評が出ています。

写真をクリックすれば、拡大されて全文を読むことができます。

営業妨害になるといけないので、「正論」もぜひ買って下さいねー。
今号の特集は「韓国許すまじ」。
今、日本の報道で信用できるのは、大手では産経新聞・正論しかありません。

もう一度、征韓論について考えてみよう2019/02/09

NHKが大河ドラマ「西郷どん」で、後半の最大ポイントであるにもかかわらず、何も描かずにごまかした征韓論。

もう一度、きちんと勉強しようと、徳富蘇峰の『近世日本国民史』を読んでいる。

明治6年(1873年)と現在の韓国の態度があまりに酷似しているのに驚く。

漢人に対しては、其の必要無きまでに恭敬を極め、日本に対してはまた必要なきまでに尊大を極めた。

支那に対しては過度に尊敬し、日本に対しては過度に軽侮し、その習慣を二百六十余年そのままに継続し来った。

何人が朝鮮政府と交渉しても、相手は殆ど全く頑冥不霊にして、到底手の著けらる可き様も無かった。

つまり、現在の韓国の無礼は、朝鮮併合(1910年)とは関係なく、彼らの持って生まれた性質であり、江戸時代も一貫していたのだ。

徳川幕府と朝鮮との間に立った対馬藩の藩主宗重正が明治3年11月、情けない心情を吐露している。

操縦の権、常に彼に在て、動(やや)もすれば、愚弄軽侮を受け、往々其術中に陥り、ご国威を損じ候

そして藩知事となった今、もう朝鮮交渉の役目は御免こうむりたいと、新政府に訴えている。

今朝の南日本新聞2019/02/11

今朝の南日本新聞、なんと一面にどーんと書籍広告が掲載されました。

南日本新聞は私が26年余在籍した古巣です。
感慨深いものがあります。

ハート出版さん、ありがとうございます!

戦後、日本から韓国に譲渡された資産のリスト2019/02/13

重要なリストなので、丸ごと貼り付けます。


韓日協定の隠された真実

文:ジョン・ソンウ
整理:江上貴子

2018年10月30日、最高裁判所全員合議体は、新日本製鉄の強制徴用被害者が、会社を相手に起こした損害賠償請求訴訟で、原告被害者側の手をあげた。

また、2018年11月に強制徴用と女子勤労挺身隊の被害者が、日本の三菱重工業を相手に提起した損害賠償訴訟でも、最高裁が原告勝訴の判決を下した。

ところが1965年に締結された韓日協定には国家だけでなく、国民(個人)の請求権まで含めた点を忘れてはならない。 そして、個人の請求権は、法人(企業)の請求権まで含まれていた。 つまり、日韓協定で企業と国民の間の請求権問題まで終わったのだ。

つまり、この部分は「個人請求権」の問題だが、「個人請求権」の概念を混同して賠償がまだ終わっていなかったと勘違いしているのだ。

具体的に話をすると、被害者の「個人請求権」は、日本政府や個人に賠償責任を問うことができなくなったが、これにより大韓民国政府が日本政府から賠償を受けたので、大韓民国政府が賠償してあげるのが妥当である。 だから実際ポスコに訴訟を起こした事例がある。

また、日本は韓日協定を通じて韓国内に存在していた資産60億ドルを全て放棄し、逆請求権を消滅させた。

その60億ドルの資産は、最終的に全て韓国企業に払い下げ(譲渡)され、国際的に認められた。

◾以下は、払い下げされた資産のリストである。

「カネボウ紡織・光州工場」がキム・ヒョンナム、キム・ヨンジュに払い下げされて、「一新紡織」となった。

「京畿織物と朝鮮紡織」が大邱で石鹸工場を運営していた金成坤(キム・ソンゴン)に払い下げされて、「双龍(サンヨン)グループ」の母胎となった。

「京畿電気・南鮮電気・朝鮮専業」は解放後、合併されて、「韓国電力」となった。

「永岡製菓」は、従業員だったパク・ビョンギュなどに払い下げされて、「ヘテ製菓合名会社」となった。

「同立産業」は、管理人だったハム・チャンフィに払い下げられた。

「東洋紡織」は、管理人だったソ・ジョンイクに払い下げられた。

「森永製菓と森永食品」が解放後に「同立食品」に商号変更して運営された後、1985年に「第一製糖」に併合された。

「三越百貨店・京城店」は李秉喆(イ・ビョンチョル)に払い下げられ、「新世界百貨店」となった。

「サッポロ・ビール」は、明成皇后の姻戚であるミン・ドクキに払い下げられて、「朝鮮ビール」となった。(1998年ハイト・ビールに商号変更)

「鮮京織物」は、工場の生産管理責任者だったチェ・ジョンゴンに払い下げされて、「SKグループ」の母胎となった。 SKグループは1939年、朝鮮の日本人反物商が作った鮮満紬緞(朝鮮から満州に織物売買をしていた企業)と、日本の京都織物が合作して作った鮮京織物から始まった。 「鮮京」という名前は、鮮満紬緞の「鮮」と京都織物の「京」を合わせて「鮮京」とつけたものである。

「昭和キリン・ビール」は、当時の管理人だったパク・ドゥビョンに払い下げされて、斗山(トゥサン)グループの系列会社である「OBビール」となった。

「浅野セメント・京城工場」はキム・インドゥクに払い下げされて、「碧山(ピョクサン)グループ」となった。

「朝日絹織」は、釜山工場長だった金智泰に払い下げされて、「韓国生糸」となった。

「小野田セメント・三陟工場」はイ・ヤングに払い下げされ、「東洋セメント」となった。

「朝鮮米穀倉庫株式会社」が解放後「韓国米穀倉庫株式会社」になり、後に「大韓通運」となった。

「朝鮮生命」が李秉喆(イ・ビョンチョル)に払い下げされて、「三星(サムソン)火災」となった。

「朝鮮燃料・三国石炭・聞慶炭鉱」がキム・スグンに払い下げされて、「大成グループ」の母胎となった。

「朝鮮郵船 」が従業員だったキム・ヨンジュに払い下げされ、「大韓海運」となった。

「朝鮮油脂・仁川工場(朝鮮火薬公判)」は、従業員であったが管理人になったキム・ジョンフィに払い下げされて、「ハンファグループ」の母胎となった。

「朝鮮製錬」はク・インフェに払い下げされて、「ラッキー化学(LG化学)」となった。

「朝鮮住宅営団」は「韓国住宅公社」となった。

「朝鮮重工業株式会社」が解放後、「大韓朝鮮公社」となった。 後に韓進グループに編入されて、「韓進重工業」となった。

「朝鮮火災海上保険」が「東洋火災海上保険」となったが、今は「メリッツ火災海上保険」となった。

「ジョージア百貨店」は、「美都波デパート」となった。

三陟の「是川製鉄所」が、解放後「三和製鉄」に商号が変更され、後にジャン・ギョンホに払い下げられて、「東国製鋼」となった。

「豊国製菓」が解放後に「プングク製菓」に商号変更して運営され、1956年「東洋製菓(オリオン)」に併合された。

ここで、大韓民国は連合国ではなく、枢軸国に分類され、戦争賠償(war reparation)を受ける国際法的権利がなかったという点を想起する必要がある。 しかし、朴正煕政府の外交的な努力に支えられ、韓日協定が締結されたお陰で、全てが解決された。

一言で借款8億ドルの他、逆請求権消滅を通して、60億ドルの利益を更に受けたのだ。 ただし、当時は経済発展に焦点を当てるしかなかったので、個人的な問題をきちんと解決出来ていないのは事実だが、問題がある場合、大韓民国政府が支給しなければならない。

2019. 1. 5 (Facebook)