青銅器の工房集落2022/05/19

さて、前回の「三種の神器」のうち、剣や鏡という青銅器。

4/17「古代史における自虐史観」に書いたように、学者はすぐ中国や朝鮮からもらったものだろうと言いたがる。

そんなことはない。
吉武高木遺跡の時代(弥生中期はじめ)には、北部九州で青銅器の鋳造が始まっている。

はじめは伝わってきた物かもしれない。
しかし相手は手取り足取り技術を教えてくれるような親切な民族ではないし、そもそも簡単に外海を往来できる時代ではない。
日本人は昔も今も自ら研究してどんどん発展させ、元より優れたものを作り上げていく民族だ。

写真は佐賀県鳥栖市にある安永田遺跡の案内板だ。
時代は150年ほど下がって弥生中期末(約2050年前)だが、分かりやすいので見てもらいたい。

ここでは昭和54年(1979)、九州初の銅鐸の鋳型が発見された。
さらに同55~56年発掘調査したところ、銅鐸や銅矛の鋳型片、青銅器の原料を溶かして炉をしつらえた長方形の穴(鋳造遺構)、溶解炉に酸素を送る送風管(フイゴ)などが見つかり、青銅器の工房集落の跡だというのが分かったのだ。

すごいよね、2000年以上も前に、青銅を溶かして鋳型に流し込んで器具を作っていたなんて。今でも危険な作業だ。

それまで九州は「銅矛・銅剣文化圏」、近畿は「銅鐸文化圏」とされてきた見解に抜本的な再検討を迫っている。

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