邪馬台国の場所はやはり福岡県山門郡2022/12/30

邪馬台国論争の沼にハマるつもりはない。

しかし、再三書いているように、21の旁国(その他の国)には大いに興味がある。

それは現在、自分が暮らしている筑後平野・佐賀平野の話だからだ。

ただ、旁国のことを考えていると、自然、女王国(邪馬台国)についても考えることになる。

魏志倭人伝には「女王国より北については戸数も道のりも分かるが、その他の旁国は遠くてよく分からない」と書いてある。

つまり、戸数や道のりがはっきり記してある対馬国、一支国(壱岐)、伊都国(糸島)、奴国(春日市)、不弥国(宇美町)は女王国より北にある。

ということは、女王国は今の大野城市や太宰府市のあたりになる。
豊田有恒の言う烏奴(うな、大野)国だ。

地形を見てもらうと分かるが、福岡平野は大野城市と太宰府市の境のところで両側から山地が迫ってすぼまっている。
この一番狭い地形を利用して、中大兄皇子(のちの天智天皇)が664年、日本防衛のための水城を築いたくらいだ。

であるからこそ、女王国の南の方は山にさえぎられて、よく分からないというわけだ。

また、投馬国と邪馬台国の記述については、著者・陳寿が後で追加した文章だろうというのが森浩一説である(『倭人伝を読みなおす』p.138)。
確かに不弥国(宇美町)まではさほど異論はないが、投馬国と邪馬台国の位置になると百家争鳴、収拾がつかなくなる。
しかし森説ならだいぶ矛盾は解消される。

そして狗奴国(くな、熊=熊襲の国)との対立の時代になって、女王は烏奴国から最前線に近い邪馬国に遷った。
好古都国(ここつ、菊池)を挟んで狗奴国と対峙したのである。
国名を邪馬国から邪馬大国(邪馬台国)に改めて女山(ぞやま、女王山)の麓(のちの山門郡瀬高町)に都を置いたに違いない。
山門(やまと)郡の名が残るのが何よりの証拠である。