津古2号墳問題② ― 2022/12/05
小郡市文化財調査報告書で確認することにした。
小郡市図書館の蔵書で探すと、「津古2号墳」は見当たらず、取りあえず「津古1号墳」(2019年)を読んでみた。
「第5章まとめ」には、津古2号墳を含めた津古古墳群について書いてあるので、これが一番新しい小郡市教委の見解と言っていいだろう。
しかし残念ながら、古墳時代の時期区分は近藤義郎編『前方後円墳集成』に依るということで、「何世紀」という書き方はしていない。
(また、その本にも当たらないといけないじゃないか)
津古2号墳(1期)→津古生掛古墳(2期)→津古1号墳(2・3期)→三国の鼻1号墳(3期)だそうだ。
津古2号墳は前方部が低くて後円部径に対し前方部の長さが短い前方後円墳で、古い時期の前期古墳の特徴を示している。
畿内の典型的な初期前方後円墳である纏向型前方後円墳の規格に近いという!
いいぞ、いいぞ。
では、なぜそんなに早くこの地域に前方後円墳が造られたか、理由が知りたい!
理由(背景)らしき部分はこうだ。
「津古古墳群の位置する三国丘陵が、西新町遺跡や比恵・那珂遺跡群を中心とした博多湾岸を貿易の中心とし、畿内や朝鮮半島の首長と関係構築をしていた福岡平野と筑紫平野をつなぐ要衝である二日市地峡帯の一角を占めていたことが考えられる」
なんか、はぐらかされた…。
ただ、一つ、初耳だったのは、「纏向型前方後円墳」に対するものとして、「那珂八幡型古墳」というタイプがあるらしいことだ。
困ったときのウィキペディア。
那珂八幡古墳は、福岡市博多区那珂1丁目にある、古墳時代発生期・出現期の前方後円墳だという。
ということは、だ。
やはり前方後円墳は現在の福岡と、畿内ヤマト政権で同時期に現われたということじゃないか!
ますます謎は深まる。
那珂八幡古墳にも行かねばなるまい。
小郡市図書館の蔵書で探すと、「津古2号墳」は見当たらず、取りあえず「津古1号墳」(2019年)を読んでみた。
「第5章まとめ」には、津古2号墳を含めた津古古墳群について書いてあるので、これが一番新しい小郡市教委の見解と言っていいだろう。
しかし残念ながら、古墳時代の時期区分は近藤義郎編『前方後円墳集成』に依るということで、「何世紀」という書き方はしていない。
(また、その本にも当たらないといけないじゃないか)
津古2号墳(1期)→津古生掛古墳(2期)→津古1号墳(2・3期)→三国の鼻1号墳(3期)だそうだ。
津古2号墳は前方部が低くて後円部径に対し前方部の長さが短い前方後円墳で、古い時期の前期古墳の特徴を示している。
畿内の典型的な初期前方後円墳である纏向型前方後円墳の規格に近いという!
いいぞ、いいぞ。
では、なぜそんなに早くこの地域に前方後円墳が造られたか、理由が知りたい!
理由(背景)らしき部分はこうだ。
「津古古墳群の位置する三国丘陵が、西新町遺跡や比恵・那珂遺跡群を中心とした博多湾岸を貿易の中心とし、畿内や朝鮮半島の首長と関係構築をしていた福岡平野と筑紫平野をつなぐ要衝である二日市地峡帯の一角を占めていたことが考えられる」
なんか、はぐらかされた…。
ただ、一つ、初耳だったのは、「纏向型前方後円墳」に対するものとして、「那珂八幡型古墳」というタイプがあるらしいことだ。
困ったときのウィキペディア。
那珂八幡古墳は、福岡市博多区那珂1丁目にある、古墳時代発生期・出現期の前方後円墳だという。
ということは、だ。
やはり前方後円墳は現在の福岡と、畿内ヤマト政権で同時期に現われたということじゃないか!
ますます謎は深まる。
那珂八幡古墳にも行かねばなるまい。
那珂八幡古墳が一つの答えか ― 2022/12/05
「ヤマトに服属」定説に一石か 福岡市の那珂八幡古墳 北部九州独自の形状https://t.co/ZtbuWSNhA0
— 古墳にコーフン協会 (@kofun_ni_kohfun) February 14, 2019
記事の最後にある教授のコメントが一つの答えかな。
九州大の溝口孝司教授(考古学)は「古墳時代の初期は近畿が地方を支配していたわけではなく、近畿と各地の首長たちによるネットワーク連合という形だったのではないか。各地域の古墳に独自性があった可能性がある」と話している。
ただ、3世紀に北部九州にあった邪馬台国(女王国連合)との関係・関連は何ら明らかになっていない。
これは森浩一さんの言う「北部九州勢力のヤマトへの東遷」を真剣に検討しなければならないかもしれない。
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