南京占領下の作家たち2022/12/19

南京占領下の作家たち――果たして〝大虐殺〟を見た者はいたのか

はじめに
 私は先に月刊『正論』平成30年(2018)7月号に「林芙美子は『南京大虐殺』を見たか」を発表し、単行本『林芙美子が見た大東亜戦争』(ハート出版)にもまとめた。
 南京大虐殺をめぐっては、相変わらず議論が絶えない。SNS上でも見解の相違から日本人同士が罵り合っているのを見かける。
 このため、日本軍占領下の南京を訪れた作家の調査対象をもっと広げることにした。林芙美子一人が南京で虐殺行為を見なかったからと言って、イコール南京大虐殺がなかったとするのは証明として少し弱いかもしれない、もっとたくさんの作家を当たってみようと考えたのだ。
 すると幸い、大宅壮一、杉山平助、山本実彦、石川達三、木村毅(き)の5人の作家が見つかった。証明の信頼性はだいぶ高まると思う。
 ここで明確にしておかなければならないのは、南京大虐殺(1946年11月の東京裁判判決では「南京暴虐事件」)が行われたとされる期間である。
 同判決文(1949年、毎日新聞社刊)によると、「一九三七年十二月十三日の朝、日本軍が[南京]市にはいったときには、抵抗は一切なくなっていた。日本兵は市内に群がってさまざまな虐殺行為を犯した」とある。すなわち始まりは昭和12年(1937)12月13日からである。
 判決文そのまま、内容を列挙する。
 最初の二、三日の間に、少なくとも一万二千人の非戦闘員が無差別に殺された。最初の一カ月の間に、約二万の強姦事件が発生した。放火は六週間続き、全市の約三分の一が破壊された。兵役年齢にあった中国人男子二万人は、城外へ行進させられ、機関銃と銃剣によって殺害された。中国兵の集団が武器を捨てて降伏したが、七十二時間のうちに揚子江岸で機関銃掃射で射殺された。捕虜三万人以上が殺された。こうして、「日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は二十万以上であった」とする(傍点は筆者)。
 1937年12月13日から6週間というと、1938年1月23日までである。
 先に挙げた5人の作家は全員、この期間中に南京に滞在している。このうち1人でも日本兵の虐殺行為を目撃したかどうかを見ていくわけだが、その前にこの昭和12年にどうして日本が上海と南京で戦わなければならなかったか、しっかりと押さえておく必要がある。
 同年7月7日、中国軍の「偶発的な発砲」から、北京郊外の蘆溝橋で、日中両軍が交戦状態に突入した。これを解決すべく和平交渉が開かれる、まさにその当日の8月9日、上海の日本海軍陸戦隊中隊長の大山中尉と斎藤一等水兵の二人が上海の保安隊に殺害される。同13日には突然、中国軍が日本海軍陸戦隊を攻撃した(第二次上海事変)。中国軍は何倍も多かったが、陸戦隊は陸軍部隊の到着まで激戦に耐え、11月12日に上海は陥落する。日本軍の戦死傷者は日露戦争を上回る4万372人(うち戦死9,115人)だった。
 中国軍は首都の南京へ敗走した。12月1日、南京攻撃命令が出る。日本軍は戦争を終わらせるべく進撃する。
 では、検証を始める。

大宅壮一の場合
 のちに超売れっ子の評論家となる大宅壮一(1900―1970)は、昭和12年11月初めに改造社の山本実彦社長とともに香港を訪れ、山本と別れたあと同月末に上海に船で渡り、そこから自動車の不調で二度引き返しながらも南京陥落に間に合った。翌年の雑誌『改造』2月号に「香港から南京入城」を書いている。
 昭和12年12月12日夜。中山陵(孫文の墓)と谷一つ隔てた建物にいた大宅は興奮で眠れない。
「日本史上に、東洋史上に、いや世界史上に、永久に記録さるべきこの重大な日、重大な時刻に、どうして眠ってなどおれようか。眼はますます冴えてくるばかりである」
 南京大虐殺を論じるときに意外と欠落している視点だが、中華民国の首都である南京がついに日本によって落とされるのだ。世界中の目が注がれている場所で〝虐殺〟などやるものだろうか。新聞社(全国紙も地方紙も)、通信社、雑誌社が競って特派員を出すのだから取材陣の数は今以上だ。
「かくて紀念すべき十二月十三日の朝はついにきた。僕は未明に一同を叩き起して、出発の用意をした。/黎明のすがすがしい空気を胸いっぱいに吸い、サクサクと霜柱をふんで、まず中山陵に向った。(略)各社の写真班、映画班が陵前の万歳をカメラに収めた。もちろん僕も撮った」
 南京は現在の東京都江東区ほどの広さで、城壁にぐるりと囲まれている。中山門が正門だ。

 中山門につくと、ここも万歳の嵐だった。城門の前に立ち、その物凄い防備を見て、こんなものがよくもかく短日月に落ちたものだと驚嘆した。
 すでに城内に味方は相当入っているが、城門の内側に山と積まれた土嚢を取り除き、扉を開かないと戦車が入らない、戦車が入らないと市内の残敵掃討ができない。それまではわれわれも市内に足をふみ入れることができない。
 そこで城壁の上にあがって遠く市内を望んでいると、突然、ドカドカドカドカと文字通りに百雷の一時に落ちるような音がして、向うの方で砂塵が濛々と上っている。敵機が襲来して爆弾を投じたのだ。しかしあまり高く飛んでいるので、ほとんど姿も見えず、爆音もかすかにしか聞えない。すぐに味方の高射砲が一斉に火ぶたをきって、それを追っぱらってしまったが、九機編隊でやってきたらしい。幸い味方に大して損害はなかったということだ。
 門の扉があいて、戦車が入ったのは四時頃だった。だからその晩僕たちは、城門に近い励玄社の一室に宿をとった。ここは支那軍のクラブで、日本の偕行社に相当するところだという。夕方ベッドを探しに地下室へ入って行くと、そこから敗残兵が三人とび出して、胆をつぶした。しかしすぐ味方の兵士に捕えられた。

 戦車を入れたら、市内の残敵掃討をやるという。中国機編隊の空爆と、高射砲の応射があった。「12月13日には抵抗が一切なかった」どころではない。

 翌十四日には、もう安全だというので、国民政府、軍官学校等々を見て歩いた。しかしこれらの建物はいずれも、予期していたよりは貧弱だった。蒋介石の室なども、随分質素なものだった。国民政府など日本の県庁にも劣るくらいである。
 それから南京市街全体が、植民地じみて殺風景である。北平(注=北京のこと)の古さもなければ、上海の賑やかさもなく、香港の豊かさもない。どことなく薄手で、バラックじみている。これは経済的に発達したものではなくて、政治的に出来た市街だからだと思う。

 これは少し後の大みそかに到着した林芙美子の感想と実にそっくりだ。「まるでポスターのような都である。あっちこっちに、ぽつんぽつんと大学や病院や博物館が建っている。建設途上だったから仕方がなかったのかも知れないけれど、何の味いもない西洋風な街である」(「露営の夜」)。つまらなくはあっても、殺伐とした様子は見られない。

 南京市民の大部分は、どこかへ避難してしまって、行きどころのない極貧層だけが、「避難地区」に集結していた。どこの町でも、気の毒なのはこれら下層民である。誤った指導者をもった国家の大衆ほど憐れなものはない。

杉山平助の場合
 杉山平助(1895―1946)は東京朝日新聞のコラムニスト。『支那と支那人と日本』(昭和13年5月、改造社)は毒舌で面白い。
 杉山は昭和12年12月24日に長崎から船に乗って、25日上海に着いた。朝日新聞の支局員2人に迎えられ、支局に赴く。翌26日には東京朝日の東亜問題調査会に属する尾崎秀実(のちスパイ事件で死刑)と上海市内を歩いた。27日朝、社の車2台で南京を目指す。途中、中国兵の死骸に出くわす。

 クリークに浮いていたり、田の水につかったり、或は枯草の上に突伏していたりした。
 たいがい裸足である。そして足を二本そろえている。この後、私はデパートの人形が、足を二本そろえて前に投げ出しているのを見ても、死骸を聯想するようになって困った。
 私は、それ等の死骸を眺めて、深い胸の痛みを感ずるというようなこともなかった。運の悪い、気の毒なものたちよ、という淡い感慨がわくだけのことである。
 これは彼等にとって、どうにもならない運命であった。彼等は、格別に悪い人間でもなかったろうし、怠け者でもなかったろう。
 ただ、いどころが悪かったから、死んだまでのことだ。支那では、洪水で死のうが、戦争で死のうが、すべてが自然死という感じでおさまってしまうようなところがある。われわれから見ると、支那人そのものが、半分は土で出来ているような無機的な感じがする。
 われわれと、これほど接触していながら、何と縁遠い民族であろう。われわれと同じ血が、彼等の血管の中に流れているようには、どうしても感じられないのである。彼等も、親もあれば子もあるのだ。その恩愛の情は、何等われ等とちがう筈はない、と考えてみるのであるが、何だか、そこが違いそうな感じのするのが支那人というものである。

 夕霧のかすむ頃に、私たちは右手に中山陵を眺めながら、ついに南京城へはいった。坦々たる大道に人っ子ひとり通らない。そして、左右の建物は、すべて空虚なのである。
 どこかで、二三軒、燃えていたが、半鐘が鳴るでなし、消防夫が駆けつけるわけでなし、見物人が群集するわけでなし、実に静かな火事というものがあるものだ。

 午後5時に朝日新聞南京支局に到着。南京には31日朝までいた。杉山の毒舌は頂点に達する。しかし、その舌鋒は鋭く真実と急所を突いている。

 南京には三十万の避難民が残っているというが、その大部分は乞食同然の無智な貧乏人ばかりである。だいたいに二十円の旅費のある人間は、たいがい逃げたと称せられるのだから、残っているのは資産二十円以下と云ってよい最下層階級が大多数だ。
 上海から南京までの途中に、いたるところの村落の白壁などに、抗日スローガンの大書してあるのを見るたびに、私は、この戦争は支那が自分で自分の喉をえぐったようなものだと考えた。日本の如何なる過激な連中といえど、この年に嘉定や太倉を占拠しようとか、南京を陥れようなどとは、夢にも考えたことはあるまい。
 それを支那人自身、勝手に、今にも日本軍が攻めて来るようなことを、何年も前から云いふらし、いたるところの白壁へベタベタかきたてて、いらざるチョッカイを出しているうちに、とうとう本当に日本を刺激し、激発して、日本人自身が夢にも思わなかった南京攻略ということが、またたく間に実現してしまったのである。
 何という馬鹿者共であろう、と私は南京政府の連中を腹だたしく舌うちした。
 どうだ、こんな抗日スローガンなんか、ベタベタかきたてても、結局はこの通り、世にもみじめに無力にやられてしまうのではないか。どうだ、今こそ思い知ったか、と、私はそういう煽動家が眼の前にいたら、なじってやりたいような亢奮に駆られた。

 杉山は中国人の敗残の姿に無常を感じ、日本人を戒める。「さしあたり、我々がそうならないように、努力するだけのことである。生命を賭して、日本を護るだけのことである」。国家体制が変わっても中国の抗日(反日)は変わらない。現代日本人にも切実に響く言葉である。

山本実彦の場合
 山本実彦(1885―1952)は改造社を成功させた出版人だが、自らもよく書いた。ここでは『興亡の支那を凝視めて』(昭和13年4月、改造社)を取り上げる。
 前述したように大宅壮一と香港で別れた後いったん日本に帰り、南京陥落を受けて12月28日、上海にやって来た。林芙美子とは同じ船だった。林は30日に車で南京に出発したが、山本はしばらく上海に残って精力的に取材を重ねた。
 29日は巡洋艦「出雲」に長谷川清・支那方面艦隊司令長官を訪ね、30日には大川内伝七・上海陸戦隊司令官に会った。31日には松井石根・上海派遣軍司令官のもとを訪れ、明けて1月3日には再び長谷川司令長官と対談した。
 のち〝南京事件〟によって東京裁判で絞首刑となった松井大将との問答の一部を紹介しよう。
「南京があれほど早く陥ちるとは思いませんでした」という山本の感想に、松井は「実は僕等も、もう二週間位は後になるだろうと思っていたが、案外に早かった。蒋介石の教導総隊だけは相当に抵抗をつづけたが、後はたいした抵抗をしなかった。だから南京は都合の好いことには余り破壊されていない」と答えている。「漢口まで行く必要はないでしょうか」という質問には、「支那側では大体に於てもう大した戦意をもっていないのみならず和平を望む空気も少しずつ現われて来ている。現に自分の所へも使者を送っている者もある位だ。(略)もうこれ以上進まなくてもすむのかも知れない」という認識を示しており、わざわざ事を荒立てる〝虐殺〟など、止めはしても自ら指示するはずがない。
 山本は上海でコレラの惨状を見る。上海の人々は味方の敗軍から住まいを焼かれ、フランス租界の中の百数カ所の避難所に収容されていた。彼らは辛うじて朝夕二度の粥にありついたが、避難所を支配する中国人たちは同胞の苦難を少しも顧みず、百人分の粥に百人分の水を差して二百人分以上として配給し、百人分を懐にして猫ばばを決め込んでいた。コレラは燎原の火のごとく広がり、クリスマスイブの一晩で千人もの人が死んだという。「私はこの現状を見て蒋介石の責任のいかに大きいのを感ぜずにはおられません」と山本は憤るが、その蒋介石はさっさと逃げていた。

 南京攻囲中に我国は蒋政権にたいして南京城を破壊すること、それからこれ以上の犠牲者を出さしむることは無意義であるとの考慮のもとに降伏を勧告したのであった。しかし、蒋介石、唐生(とうせい)智(ち)、白崇禧は頑としてこれに応ぜなかった。蒋は陥落を前にして南昌に遁れ、唐は今日までのところ、その行衛が不明である。

 山本は1月7日朝、飛行艇で上海から南京へ飛んだ。同日午後、南京城外の下関(シャーカン)の沖、揚子江上に着水した。ここでの12月13日の戦いは、のちに東京裁判判決で「中国兵の大きな幾団かが城外で武器を捨てて降伏した。かれらが降伏してから七十二時間のうちに、揚子江の江岸で、機関銃掃射によって、かれらは集団的に射殺された」と決めつけられた。
一人の参謀が日本の軍艦を見ながら、山本に説明する。

 南京落城とともにジャンクに乗ったり、木片につかまってこの大川の中にとびこんだ支那兵は万を越えたでしょう。彼等は木片や、ジャンクの上に小銃機関銃、剣等をのせ、両手でしっかり木片をにぎり、ふなばたにかじりついて、われ等の方向ばかり睨んでおるのでした。木片も流れる、ジャンクも下流へと流されてゆく。その目、目、目は憎悪にもえてすごかったこと、そして我が艦のそばに押流されてくるものたちは、体一つのものが多かったので――だが、それ等のものはもう抵抗する実力は失われておるし、武器もすててしまっておるので、不憫な眼差をして哀を乞うのでありました。中には、三人、五人と、陸に漕ぎつけて枯蘆の茂みなどから抵抗するものもありました。しかし、彼等はこの大川の底に沈んでいくものが多かったのですよ……。

 山本は南京の〝守将〟唐生智のことを思う。「彼は部下数万の将兵とどうして花々しく散り行かなかったでしょう。彼は南京の総帥として敗れれば死があるのみです。生きようとして生きられない運命にあったのです。それでも彼は全力を出して脱出したのでありました。(略)この大河に一万にも近く流れたものたちのうちには、将官たちは殆どなかっただろうことをさる参謀は話しておるのだった。この国では上層部では遁げるのが早いので……」。山本は下関埠頭から車で南京へ入った。南京では二年連続で正月を過ごし、なじみの深い街である。しかし、避難地区にはどんな人物が潜んでいるか分からないので不気味さを感じる。

 この一帯は平常ならば、山手街の品のよい町並みなのですが、今では大抵の家々は避難民によりて占領されておるのでありました。この街は昼間歩いてさえ敵人の片割ればかりが巣食っておるのでありますから、何だか底気味悪さを覚えさせるのです。まして夜になれば通行人は皆無でありますから、まるっきり、死の街に吸い込まれてゆく感じがするのでありました。

 そして「こんな環境にあれば日本人だけがたよりになる」「(日本人なら)地位に上下なしで君僕の心やすさでありました。いつ、外敵から襲われるかも知れない生活では自然そうなるものと思われました」という。何のことはない。中国人を虐殺するどころか、日本人はびくびくして暮らしていたのだ。
 山本は翌日、1400人ほど避難している小学校に行く。「彼等のうちにはいくらかのインテリもあるようでしたが、だいたいは無知の市民であるらしく、インテリの眼は光っていましたが、市民の眼は羊のようなやさしいものに感ぜられました」という。

石川達三の場合
 小説家の石川達三(1905―1985)は昭和13年1月8日、南京に到着した。15日に上海に戻るまで正味7日間滞在した。20日に上海を発ち、23日に東京に帰着。2月1日から「生きている兵隊」240枚を11日間で書き上げた。掲載誌の『中央公論』3月号は2月17日に配本されるが、18日夜までに発禁処分となり、19日、店頭に出ていた同誌を警察が押収した。21日に中央公論社員が警察署に行って手作業で「生きている兵隊」を切り取ってから雑誌を受け取り、販売した(河原理子『戦争と検閲――石川達三を読み直す』岩波新書)。
 石川は同年8月4日、新聞紙法違反(安寧秩序紊乱)の罪で起訴され、9月5日、東京区裁判所は禁固四カ月執行猶予三年の有罪判決を言い渡した。東京区検は同7日、執行猶予は不当だとして控訴した。石川は汚名返上のため判決の翌週、再び中国へ従軍取材に出て、翌14年の『中央公論』1月号に「武漢作戦」を発表した。3月9日の二審では石川側の証人として尾崎秀実が法廷に立ち弁護した。同18日の判決は一審と同じで実刑は免れた。
『生きている兵隊』は、日本兵のモラルの低さをこれでもかこれでもかと偏執的に書き連ねていく、実に醜悪な小説である。そのためにフィクションでありながら、南京大虐殺の実例として取り上げられることも少なくない。
 しかし、それは間違いだ。確かに日本軍が南京に攻め上る途上では、中国人の非戦闘員に対して数々の残虐行為を働くさまを描いている(石川は南京攻略戦には従軍していないので創作である)。ところが、南京大虐殺が始まったとされる昭和12年12月13日以降に日本兵の虐殺行為といえるものが書いてあるかどうかをチェックしてみると、意外にも見つけるのが難しいのだ。
 まずは例の12月13日の下関(シャーカン)の戦い。石川はなんと、唐生智のとんでもない所業を暴いている。

 友軍の城内掃蕩はこの日もっとも凄壮であった。南京防備軍総司令[官]唐生智は昨日(注=12日夜)のうちに部下の兵をまとめて挹江門から下関に逃れた。挹江門を守備していたのは広東の兵約二千名であった。彼等はこの門を守って支那軍を城外に一歩も退却させない筈であった。唐生智とその部下とはトラックに機銃をのせて、この挹江門守備兵に猛烈な斉射をあびせながら城門を突破して下関に逃れたのであった。
 挹江門は最後まで日本軍の攻撃をうけなかった。城内の敗残兵はなだれを打ってこの唯一の門から下関の碼頭に逃れた。前面は水だ。渡るべき船はない。陸に逃れる道はない。彼等はテーブルや丸太や板戸や、あらゆる浮物にすがって洋々たる長江の流れを横ぎり対岸浦口に渡ろうとするのであった。その人数凡そ五万、まことに江の水をまっ黒に掩うて渡って行くのであった。そして対岸について見たとき、そこには既に日本軍が先廻りして待っていた! 機銃が火蓋を切って鳴る、水面は雨に打たれたようにささくれ立ってくる。帰ろうとすれば下関碼頭ももはや日本軍の機銃陣である――こうして浮流している敗残兵に最後のとどめを刺したものは駆逐艦の攻撃であった。

 石川が南京に来たのは、下関の戦いから1カ月足らずだが、ほぼ正確な情報をつかんでいたようだ。東中野修道『再現南京戦』(2007年、草思社)によると、挹江門には逃亡兵を射殺しようと中国軍督戦隊が厳戒中だった。「唐司令官の突然の逃亡によりパニックとなった中国兵は、唯一の脱出路であった挹江門へと殺到した。そのとき多くの中国兵が友軍の督戦隊から射殺されたが、それでも挹江門の狭い出口に殺到したため、多くの中国兵が圧死した」という。
 しかし、石川にしても、日本軍占領下の南京での虐殺(一般人や捕虜の殺害)を直接見ることはなかった。「血腥い話」として書いているのは、主要な登場人物2人が南京に不在の間の出来事である。
 近藤一等兵と平尾一等兵が、上海で止まっている故郷からの手紙を探してこいという命令を受ける。1月5日に下関から船で出発し、8日上海に到着。郵便と慰問袋を探し出して12日、貨車で南京へ戻る。その留守の間にあったのが笠原伍長に聞かされる以下の話だ。
 城外へ野菜を買いに行った日本兵が2人行方不明になって、50人の兵が一帯の民家をしらみつぶしに捜して、不明の兵士のシガレットケースを見つけた。5人の男たちを犯人と断定して、その場で処刑したという。
 南京攻略戦の途上では、日本兵の残虐行為を読むに堪えないほど精細に描写した石川が、ただ単に伝聞の筋だけ書いて済ませている。ひと言、笠原伍長の露悪的な言葉を加えただけだ。「まるでお前ゴム毬に水を入れて棒で、ぶんなぐった様な工合だな。ぼこという様な手ごたえでな、血がちゅちゅちゅ! そして流れた血から湯気がもやもやあと昇ってな」(中公文庫の伏字復元版)。
 何万、何十万人といわれる「南京大虐殺」の規模と、決まって引き合いに出される『生きている兵隊』の卑小な内容との乖離はどうだろう。占領下の南京では石川も虐殺行為を見つけられなかったと言っていいのではないか。残虐な前半の創作と、占領下の後半を区別せず(できず)混同している人が多いと思われる。

木村毅の場合
 木村毅(き)(1894―1979)という作家は今はほとんど聞かないが、代表作の『小説研究十六講』は二十歳前の松本清張に感銘を与え、清張は生涯、座右の書とした。北九州市の松本清張記念館には亡くなった時の書斎が再現されているが、そこにもこの本がある。
 木村は昭和12年8月18日に東京を発ち、上海で従軍記者として働いた。南京へはいつ来たのか分からないが、昭和13年の元日にいたのは確かである。大阪毎日新聞南京支局の前庭にテーブルを出して鯛と日本酒で新年を祝い、「小柄な林芙美子女史、オトッチャン小僧のような木村毅氏の童顔も上気して見える」と同紙の志村冬雄が書いている(「南京の感傷」)。
 木村には「南京城総攻撃」を含む『戦火』(昭和13年、大日本雄弁会講談社)という本があるが、ここでは『皇軍百万』(昭和15年、興亜文化協会)に収められた「名曲」というユニークな小説を紹介したい。主人公の波子は看護婦だ。

 波子の一行の、新しい職場は、南京の野戦予備病院で、而も波子は支那の負傷兵係を志願した。
 南京の占領当時は、支那の負傷兵には、支那人看護婦がつけてあったのである。
 彼女達は支那では、勿論、インテリだから、抗日意識は最も強い。
 わが軍が南京に入城して、支那の病院も赤十字条約の法規に随い、わが監理下に置こうとしたのを、彼女達は門の前に立ち塞がって、無益の抵抗を試みた。
 それを色々に宥めすかして、君達はみな支那負傷兵係に使ってやる、同胞勇士の介抱に当れるのなら文句はあるまいと話して聞かせると、彼女達もやっと納得した。
 と云うと、彼女達も一廉(かど)の女志士のように思われるが、必ずしもそうでもない。
 兵が熱を出して、悪寒で慄えているような時でも、物置きに山と積んである毛布を取って来て、上に掛けて暖めてやると云うだけの気転と親切気とは彼女達にはない。
 その癖、自分等は寒いとなると、遠慮なくその毛布を徴発してきて、掛けて寝ているのだ。
 何より迷惑もするし、滑稽でもあるのは、食事の時間が来た時で、そのベルが鳴ったとなると、病人の手当をしておろうが手術室に付いている時であろうが、何もかもおッぽり出して了って、食堂へ駈けこむのであった。
 それで大体、彼女たちは釈放することになって、波子の一行はそれと交代するために来たのである。

 波子は内地の病院では患者に手こずることもあった。ところが日本兵の野戦病院には、わがままや臆病な患者は一人もいない。みんな、看護婦の言うことをよく聞き、よく守ってくれる。なぜか。「負傷兵の第一関心事は国家だ。或はもっと大きく東洋だ。元より自分の事を些(ちっ)とも考えないわけにはゆかぬが、それは最小限度に制限する。だから我儘と云うものが兎の毛程もない」。
 さて、支那の兵隊はどうだろうかというところから話が動き出す。看護婦たちは、別に変わった人種でもないと思ったり、やはり日本人とは違う、床の上に痰を吐くと顔をしかめたり。三週間もすると、看護婦たちはその親切さですっかり支那負傷兵たちの気持ちをつかんでいた。
 しかしただ一人、重傷の中尉だけが、軍医も看護婦も全力を挙げて彼の命を取り留め、その後もあらゆる注意を払っているのに感謝の言葉一つない。実は日本語も留学経験を思わせるレベルなのだ。ただ、他の中国兵が日本兵と違って我慢強さがなく、手術で痛がって号泣するのに、この中尉だけはどんな措置にも一声も出さずこらえた――。
 ともあれ、これは南京が舞台である。大虐殺があったとされる、悪名高き南京だ。しかし、中国人負傷兵も分け隔てなく一生懸命に治療している。虐殺どころか、日本人が中国人の命を救っているのをどう考えるのか。

結び
 東京裁判で言う「南京暴虐事件」の期間(1937年12月13日から1938年1月23日まで)に南京にいた5人の作家の一次史料(東京裁判史観は存在しない)を見てきた。
①日本兵とほぼ同時に南京城内に入った大宅壮一の実体験から、12月13日から中国側の抵抗が一切なくなったとはとても言えない。同日以降の石川達三『生きている兵隊』は、前半部と違って比較的信頼できるが、「十四日城内掃蕩。商店街の至るところに正規兵の服がぬぎすててある、みな庶民の服に着かえて避難民の中にまぎれこんだのだ」とある。日本軍がいわゆる便衣兵に悩まされていたのは今では有名だ。
②12月13日の下関(シャーカン)の戦いでは、中国兵たちは武器を捨ててもいないし、降伏してもいない。唐生智司令官の敵前逃亡でパニックになって、万単位の兵が城内から逃げ出そうとして揚子江に殺到したものである。戦争は継続しているのだから日本軍の銃撃もあっただろうが、多くの中国兵が自軍から射殺されたほか、圧死、溺死した。
③木村毅の小説「名曲」は、南京の野戦予備病院で中国兵たちの看護にあたる日本人看護婦たちの物語。当初、中国人看護婦たちと一緒に働くのも驚きだが、その後、日本人だけで一生懸命に職務に励む。ここには〝虐殺〟などとは対極の世界がある。
結局、5人の作家が書いた物の中で、占領下での虐殺行為らしきものは、日本兵2人を殺した5人の男たちを処刑したという石川達三の話ひとつだけである。これも「笠原(注=伍長)はそこで処刑の有様を説明した」という間接表現であることから、石川の伝聞か創作であるのは間違いない。
 以上により、南京大虐殺の証拠は何も無かったというのが私の結論である。

弥生土器に文字2022/12/19

紀元前2世紀には前漢鏡が伝わり、以来ずっと日本人は鏡を大事にしており、当然そこに刻まれた文字(漢字)のことは知っていたのに、自らはなかなか文字を使おうとはしなかった謎について書いてきた。

ところが、糸島市の三雲・井原遺跡(紀元前1世紀)から文字を刻んだ甕が出ている。

それがよりにもよって「鏡」を省略(減筆という)した「竟」の字だという。
どうしても「竟」には見えないけど… 口+見でしょうね。
この頃にはもう日本でも銅鏡を作り始めているので、銘文の練習のために書いてみたのか?

鳥栖市の柚比遺跡群2022/12/19

わが家からほど近い、佐賀県鳥栖市の弥生が丘一帯がなかなかすごい歴史の宝庫であることが分かってきた。

安永田遺跡(5/19)に始まり、ヒャーガンサン古墳、田代太田古墳(11/19)、今度は九州で最も古い初現期古墳(前方後方墳)の一つという赤坂古墳に行ってみる!