五郎山古墳の船2023/04/23

わが家の近くに、全国的にも有名な装飾古墳の五郎山古墳がある。
車で5分。

壁画には合わせて6隻もの船が描かれている。

そのうち最も大きな船には棺らしき四角い箱が乗せられていることから、死者の魂をあの世へ送る様子が描かれていると説明されている。

いわゆる「天鳥船(あまのとりふね)」思想と言って、鳥の案内によって死者の魂は船に乗り、天国に導かれるという考え方がある。

実際、うきは市の珍敷塚(めずらしづか)古墳や鳥船塚古墳の壁画では、船の舳先に鳥がとまっている。
五郎山古墳でも一羽の大きな鳥が飛んでいるような線がある。

ただ、当時の河川交通の重要性を考えれば、普通に交通・輸送手段としての船が描かれていると考えていいのではないかと思っていた。

日下八光著『装飾古墳の秘密 壁画文様の謎を解く』(1978年)を読んだ。

どうしてこんな古い本を読んだかというと、日下氏は画家で、文化庁の委嘱で装飾古墳壁画の模写を一手に任されて、24年間で残した成果は今も装飾古墳研究に欠かせない、唯一無二のものと言っていいからだ。
古墳にこもり壁画と対峙することで、学者にはつかめない、肝心かなめの処(本質)をつかんでいるに違いない。

案の定、「はじめに」では「理解しがたい事柄のすべてを『呪術的』の一語で説明してしまおうという傾向には賛成できない」という姿勢を明らかにしており、期待はいやがうえにも高まった。

さて、船の話に戻る。

日下氏は五郎山古墳について「博多方面に比較的近いという立地条件をもっていることなどから、被葬者は、あるいは多くの輸送船を持ち、海上でも活躍した豪族で、これらの船の図は実用の船を再現したものではないかと考えたこともあった」という。私と同じだ。

ところが、その考えを変えたのが鳥栖市の田代太田古墳だった(3/26参照)。
日下氏は昭和35年冬、田代太田古墳の模写を終えていたが、同44年夏にたまたま機会があって再訪したところ、前は気づかなかった船の図があって驚いた。冬の乾燥期には全く見えなくなるのだ。
さらに後の昭和51年、流れ込んだ土砂が除去された田代太田古墳に立ち寄ると、船の図が見つかった場所には追葬のための死床の石組みが掘り出されていた。
「ようやく、私はこの船の図はまさに【傍点】死床の奥壁【傍点】に該当することに気がついたのである」

横穴式石室は家族墓である。
後室奥壁の赤い立派な船は一族の主人のためのものであるとしても、中室右側壁に見つかった船の図は、そこに葬られた追葬者の霊の乗用に充てられたものであると日下氏はみなしたのである。

したがって、「五郎山古墳の多くの船の図についてもまた、複数の追葬者のために描かれたものと解釈する方がより妥当ではないかと思う」。
これなら私も納得できる。

また、熊本の弁慶ケ穴古墳には「馬を乗せた船の図」があるが、これも馬を輸入していた様子を表わすものというより、主人の死に際しての愛馬の殉死か、主人の死の旅立ちを見送る愛馬と解した方が妥当だろうという。

「このような例を順次みてくると、冒頭に記したような実用の船は少なく、ほとんどの古墳に描かれた船の図は、被葬者の霊が祖霊の国に渡るための乗用、もしくは葬送に関連のあるものであり、複数の船の図が存在することも、複数の被葬者のある横穴式石室においてはなにも不思議ではないことが解る」