斉明天皇⑤ ― 2022/03/11
斉明天皇はどうしてわざわざ遠い朝倉までやって来たのか。
実は「日本書紀」には、斉明天皇より460年前にも朝倉が登場する。
仲哀天皇が仲哀8年(199年)1月、熊襲征伐のために神功皇后とともに筑紫にやって来る。
9月、神功皇后を通じて神託があり、「荒れて痩せた土地にいる熊襲を討つよりも、宝の豊富な新羅の国というところがある。自分をよく祀れば刀に血塗らず服従するだろう。また熊襲も従うだろう」という。
しかし、仲哀天皇は高い山に登ってもそのような国は見えなかったとして神託に従わず、熊襲を討ったが勝てなかった。
神託に背いたため、翌9年2月、仲哀天皇は筑紫の香椎宮で亡くなる。
神功皇后はその後、新羅に出兵するわけだが、その前に荷持田村(のとりたのふれ=のとりは朝倉市野鳥か)に「羽白熊鷲(はしろくまわし)」という者がいた。
羽白熊鷲は強健な体に翼を持ち、高く飛ぶことができる。皇命に従わず、人々から掠め取っているという。
斉明天皇の喪に現われた「鬼」といい、羽白熊鷲といい、朝倉には500年近くも大和政権にまつろわぬ異形の者たちがいたらしい。
朝倉市矢野竹には羽白熊鷲の塚がある。
写真で見るとなかなか立派な塚だ。今度行ってみよう。
実は「日本書紀」には、斉明天皇より460年前にも朝倉が登場する。
仲哀天皇が仲哀8年(199年)1月、熊襲征伐のために神功皇后とともに筑紫にやって来る。
9月、神功皇后を通じて神託があり、「荒れて痩せた土地にいる熊襲を討つよりも、宝の豊富な新羅の国というところがある。自分をよく祀れば刀に血塗らず服従するだろう。また熊襲も従うだろう」という。
しかし、仲哀天皇は高い山に登ってもそのような国は見えなかったとして神託に従わず、熊襲を討ったが勝てなかった。
神託に背いたため、翌9年2月、仲哀天皇は筑紫の香椎宮で亡くなる。
神功皇后はその後、新羅に出兵するわけだが、その前に荷持田村(のとりたのふれ=のとりは朝倉市野鳥か)に「羽白熊鷲(はしろくまわし)」という者がいた。
羽白熊鷲は強健な体に翼を持ち、高く飛ぶことができる。皇命に従わず、人々から掠め取っているという。
斉明天皇の喪に現われた「鬼」といい、羽白熊鷲といい、朝倉には500年近くも大和政権にまつろわぬ異形の者たちがいたらしい。
朝倉市矢野竹には羽白熊鷲の塚がある。
写真で見るとなかなか立派な塚だ。今度行ってみよう。
斉明天皇⑥ ― 2022/03/11
日本は無条件降伏していない? ― 2022/03/11
ツイッターで早稲田の教授があまりにも「日本は無条件降伏していない、していない」と繰り返すので、気になって確認してみた。
何しろこの教授、反論には「歴史を学べ」と罵倒するだけで説明しない、不親切な人なのだ。
本棚から『別冊正論24』を取り出す。これは役に立つ。

まず、ポツダム宣言(昭和20年7月26日)を見る。
13項目あって、6以下の8つが「吾等の条件」だ。
ん? 条件があるということは、確かに無条件ではない。
しかし、最後(13番目)には「吾等は日本国政府が直に全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し云々」と、やはり「無条件降伏」の文言があるではないか。
これについて、まさに当事者である、終戦時の内閣書記官長、迫水久常はこう書いている。
ポツダム宣言では決して日本が統治権をアメリカに委ねる意味において無条件降伏したのではありません。
要するに軍隊の無条件降伏という一つの条項を含んでおるけれども、国家の無条件降伏はないんだと。即ち日本はアメリカに対して無条件降伏をしたことはないんだと。軍隊が無条件降伏したことはあるが、日本国家が無条件降伏したことはないんだというのが、私の考え方であります。
これは一見、強弁に聞こえる。
しかし、ポツダム宣言受諾に関する8月10日付帝国政府の申し入れに対する、米英ソ中の回答にはちゃんと「最終的の日本国の政府の形態はポツダム宣言に遵(したが)ひ、日本国国民の自由に表明する意思に依り決定せらるべきものとす」と書いてある!
迫水久常の言う通りだ。
ただし、9月2日に調印された降伏文書には「天皇及日本国政府の国家統治の権限は本降伏条項を実施する為適当と認むる措置を執る聯合国最高司令官の制限の下に置かるるものとす」とあり、この「制限の下」が論議を呼ぶわけだが、確かに日本は国として無条件降伏したのではないとは言えるようだ。
教科書は正確に書き改める必要がある。
何しろこの教授、反論には「歴史を学べ」と罵倒するだけで説明しない、不親切な人なのだ。
本棚から『別冊正論24』を取り出す。これは役に立つ。
まず、ポツダム宣言(昭和20年7月26日)を見る。
13項目あって、6以下の8つが「吾等の条件」だ。
ん? 条件があるということは、確かに無条件ではない。
しかし、最後(13番目)には「吾等は日本国政府が直に全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し云々」と、やはり「無条件降伏」の文言があるではないか。
これについて、まさに当事者である、終戦時の内閣書記官長、迫水久常はこう書いている。
ポツダム宣言では決して日本が統治権をアメリカに委ねる意味において無条件降伏したのではありません。
要するに軍隊の無条件降伏という一つの条項を含んでおるけれども、国家の無条件降伏はないんだと。即ち日本はアメリカに対して無条件降伏をしたことはないんだと。軍隊が無条件降伏したことはあるが、日本国家が無条件降伏したことはないんだというのが、私の考え方であります。
これは一見、強弁に聞こえる。
しかし、ポツダム宣言受諾に関する8月10日付帝国政府の申し入れに対する、米英ソ中の回答にはちゃんと「最終的の日本国の政府の形態はポツダム宣言に遵(したが)ひ、日本国国民の自由に表明する意思に依り決定せらるべきものとす」と書いてある!
迫水久常の言う通りだ。
ただし、9月2日に調印された降伏文書には「天皇及日本国政府の国家統治の権限は本降伏条項を実施する為適当と認むる措置を執る聯合国最高司令官の制限の下に置かるるものとす」とあり、この「制限の下」が論議を呼ぶわけだが、確かに日本は国として無条件降伏したのではないとは言えるようだ。
教科書は正確に書き改める必要がある。
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