平原1号墓再考①2022/12/13

広瀬和雄『前方後円墳の世界』(岩波新書)を読んでいる。

第Ⅰ章3「弥生神殿のゆくえ」で、糸島市の平原一号墓には「神殿とみなしうる独立棟持(むなもち)柱建物が建てられていた」とあって驚いた。初耳である。

私は今年5月21日、個人的に伊都国歴史博物館を訪ね、10月19日にはボランティアガイド研修で同館を再訪、平原一号墓の現地(写真)も訪ねた。

平原一号墓は通常、副葬品として40面もの青銅鏡(国内一位)が出土したこと、その中には直径46・5cmの日本最大(つまり世界最大)の内行花文鏡があったことで知られる。

ところが広瀬氏は「なによりも重要なのが、埋葬施設の周囲に穿たれた直径一八~二九センチメートルの柱穴群です」という。

そして「伊都国歴史博物館にはこの埋葬施設の実物大模型があって、柱穴群がゆっくりと観察できます」と書いている。

そんなのあったっけ?
確かに実物大の「平原王墓主体部復元模型」はあったが、柱穴群の説明なんてなかったが…?

平原1号墓再考②2022/12/13

上の写真をクリックすれば十分な大きさに拡大されるので、よ~く「平原王墓主体部復元模型」を見てほしい。

確かに、柱穴はある。

でも、説明がないと分からないよー

広瀬和雄氏によると、これらの柱穴によって「妻側の外方の二カ所に独立棟持柱をそなえた掘立柱建物」が「すっぽりと墓壙上面をカバーするように建てられて」いたことが分かるという。

そして独立棟持柱建物は、普通の掘立柱建物とは違って、「カミが住まいした神殿である」というのだ。

このあたりの広瀬氏の論には飛躍もあり、ちょっと分かりにくい。

そこで伊都国歴史博物館のパンフレットを探り出して見てみると、思いがけない出土物を見つけた。

平原1号墓再考③2022/12/13

伊都国歴史博物館入場時に渡されるパンフに掲載されているのだから、糸島市を代表する遺物なのだろうが、上記のように分かりやすく図示されていないので気づかなかった。

平原遺跡ではなく、上鑵子(じょうかんす)遺跡という所から出た「人物線刻板」である。

「15センチほどの板に刻まれたシャーマンの姿。その顔には刺青を施し、頭には羽飾りをつけています」

羽飾りをつけたシャーマン…。

広瀬和雄氏の文章には「鳥装した司祭」という言葉が出てくる。

これで11/22付の本ブログ「鳥人は実在したのか」につながった。
羽白熊鷲は祭祀も行う豪族だったに違いない。

「鳥の顔の人」が描かれていたのは、岡山県の新庄尾上遺跡から出土した弥生土器だ。

こうした弥生時代の土器絵画について広瀬氏はこう書いている。

「〈舟で運ばれてきたカミが、高床倉庫に安置された神像に憑依し――その段階で高床倉庫は神殿に転化する――鳥装した司祭によって、予祝祭や収穫祭のような祭祀儀礼が執行された〉というふうな神話風景が土器絵画のモチーフだと、夢想しています。もしそうだとすれば、高床式の独立棟持柱建物はカミの住まいとしての神殿になりそうです」

これが平原一号墓=弥生神殿との論拠である。