卑弥呼が死んだ頃の古墳⑥2022/12/20

墳頂に上がると、石棺の枠部分の石がはっきりと残っている。

ここに女王・卑弥呼が眠っていたとすると、あまりに侘しく、寂しい。

しかし、卑弥呼の死が失意の死だとすれば、まことにふさわしい「失意の墓」である。

卑弥呼の時代、中央(ヤマト)は崇神朝だ。

崇神天皇は北陸道、東海道、山陽道、山陰道にそれぞれ将軍を遣わし(四道将軍)、平定した。

次は九州だろう。
危機感を持った卑弥呼は後ろ盾を求める。
景初三年(239年)に魏に使いを送り、翌年、親魏倭王の称号を受けた。

外交力でヤマト政権を牽制した卑弥呼だったが、今度は247年、南にある狗奴国(熊襲の国)と戦争になる。

卑弥呼から戦況の報告を受けた帯方郡(魏の出先)から張政らが派遣され、大夫である難升米に詔書と黄幢(黄色の軍旗)を授けた。
魏は卑弥呼を見限り、難升米を指揮官としたのである。

その直後、卑弥呼は失意のうちに死ぬ。おそらく自死だろう。

箸墓古墳のような壮大な古墳が卑弥呼の墓などとはあり得ない。
日本書紀の記述と宮内庁の比定どおり、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓である。
卑弥呼の自死を知った崇神天皇が、卑弥呼のつましい墓に対して、これみよがしに大叔母のために日本で最初の巨大前方後円墳を築いたものだろう。

箸墓は昼は人が造り、夜は神が造ったという。
前方後円墳時代の幕開けである。

九州最初の前方後円墳が17日に紹介した石塚山古墳である。

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