荒涼たる九大箱崎キャンパス ― 2023/12/13
九州大学の箱崎キャンパスに初めて行ってみた。
九大といえば、高校時代、先生から「受けろー、受けろー」とうるさく言われたものだが、それへの反発もあって、全く眼中になかった。
鶴丸高校としては、全国の高校相手には東大合格者数や国立大医学部合格者数が重要だったが、九州内や同じ鹿児島市内の高校に対しては九大合格者数でも負けてはならなかったのである。
なにしろ百人は送り込まないと勝てないのだ。
しかし、そんなのは先生や学校の勝手である。
生徒にとっては勝手に人生の進路を決められるという、全くもって迷惑な話だ。
進路指導なんてものはなかったに等しい。
とにかく勉強のできる者から順に、東大、国立大医学部を強制的に勧められ、そこに達しないグループには九大を受けさせる。そこにも届かない者は関心の外だ。
3年の時の担任の東憲治先生に、京都大学を受けると言っても許してもらえず、じゃあ一橋!いやダメってわけで、願書提出期限までなかなか決まらなかった。
とうとう私も訳が分からなくなって、やけのやんぱちで名古屋大学にすると言った。
名大も一流大学ではあるが、鶴丸から受ける者などいない。
どうしても九大がイヤだったのだ。それだけだった。
ところが、東先生もこんにゃろー勝手にしろと思ったのか、なんと許しが出た。
この先生には遺恨があった。
夏頃だったか、夜中、近くの同級生の家に4人ほど集まって、ウイスキーをかっくらった。
飲み方を知らないから、コップにそのまま注いで生(き)で一気飲みだ。
翌日、3人は何食わぬ顔で登校したが、1人が二日酔いで欠席した。
しかもあろうことか、そいつは一緒に飲んだメンバーをばらした。
私は階段の踊り場で東にビンタを食らった。
まあ、これは自分らが悪いから仕方がないが、もう一つは許せない。
帰りのバスで居眠りして、開いていた窓から帽子を落としてしまった。
慌てて次のバス停で降りて探したが、見つからなかった。
翌朝、帽子なしで登校すると、服装に目を光らせていた東はすぐ「帽子はどうした」と聞いた。
「なくしました」
「新しいのを買いなさい」
(え⁉)
もう3年生の3学期である。入試等もあって、学校に行くのはわずかだ。
それなのに新品を買えと言う。母にお金をもらうのも申し訳ない。
こういうとき私は悲しいかな、うまくアドリブで口ごたえができない。
結局、新しい帽子を買い、わずか数回だけ学校にかぶっていった。
帽子を落とした私は、名大も落ちた。
入試は見たこともない問題ばかりだった。
入試問題にここまで地域性があるとは想像もしていなかった。
だから鶴丸では九大の過去問ばかりやらされたのだ。
あるいは東京の大学を受ける者が多いので、そういう傾向と対策も。
だから早稲田の試験では、見たこともない問題が並ぶようなことはなかった。
東先生も私が痛い目に遭うことは分かっていただろう。
今でも思う。
希望は通らず、受けたくもない名大を受ける必要があったのか(しかも落ちた)。
先生にそんな権利があるのか。
東先生はその後、鶴丸の校長になった。まあ順当な出世かもしれないが、本人は教育長を狙っていたと私はにらんでいる…。
まあ、それやこれやの九大である。
目的は九州大学総合研究博物館である。
九大の本体は糸島に移転したと仄聞していたものの、跡地の箱崎キャンパスがこんなに荒涼としているとは驚いた。
旧工学部本館がぽつんと残されて博物館になっているのだ。
中に入ってみる。
ほかに見学者もなく、しんとした中にアンモナイトの化石から始まって、いろんな遺物が無造作に置いてある。
さすが、箱崎にあった110年の歴史が迫ってきて迫力がある。
夢野久作のドグラ・マグラの世界だ。
1、2、3階とたっぷりたんのうした。
もっとも人骨の部屋とかは恐ろしくてドアを開ける勇気はなかったが。
九大総合研究博物館は令和9(2027)年度にリニューアルオープンするそうだ。
このおびただしいお宝を死蔵させておく手はない。
私も微力ながら関わりたいと思っている。
あんなに逃げ回っていた九大と、50年近く後に縁ができそうだ。
それもまた人生だろう。
さらば羽白熊鷲 ― 2023/12/08
このブログでは、神功皇后に殺された羽白熊鷲について何度も書いてきた。
日本書紀には、羽白熊鷲は翼があって高く飛ぶことができたと書いてある。
そんなバカな、というなかれ。
千年後のメキシコにも「鷲の戦士」がいたのである。
九州国立博物館で開催中の古代メキシコ展でお目にかかれる。
名残惜しいが、あさって10日までだ。
私は、羽白熊鷲もこのような格好をしていたのだろうと考えている。
根拠のないことではない。
弥生中期、奈良県橿原市坪井遺跡出土の土器片である。
(森浩一編『日本の古代1 倭人の登場』巻頭カラーの一枚)
(森浩一編『日本の古代1 倭人の登場』巻頭カラーの一枚)
また、岡山県新庄尾上の弥生土器には「鳥の顔の人」が描かれている。
国立歴史民俗博物館編『銅鐸の絵を読み解く』より
さて、おととい書いたように、神功皇后は現在の筑前町夜須(安)で羽白熊鷲を討つと、次に山門県の土蜘蛛、田油津媛(たぶらつひめ)を滅ぼすため、津古から舟に乗って得川(宝満川)を下り、いったん上岩田(神磐戸)に上陸した。
津古の「津」は川の港、渡し場であったと考えられる。
宝満川と宝珠川の合流地点に行ってみた。
左から右へ流れている宝満川に、手前の宝珠川が流れ込んでいる。
なるほど、いずれも川幅も水量も申し分ない。古代には船の行き来が盛んだったことだろう。
宝珠川を遡ればちょうど五郎山古墳のあたりに辿り着く。
五郎山古墳の壁画には船が6艘も描かれている。むべなるかな。
わが家の下に埴輪窯 ― 2023/12/07
看板も何も出ていないので分かりにくいが、どうやらわが家のあたりは三沢蓬ケ浦(みつさわふつがうら)遺跡らしい。
ここでは2000年に、九州では非常に珍しい埴輪窯(5世紀中ごろ)が見つかった。
出土物は少なく、すべて家形埴輪の屋根の破片だった。
中で注目されるのは片流れの家形埴輪(左)で、全国的にも類例が少なく、今城塚古墳(大阪府高槻市)など古墳時代を通じて首長墳に採用されることがほとんどだという。
ちょうど10月に今城塚古墳も訪ねており、展示館で片流れの家形埴輪の写真も撮っていた。
左側の埴輪がそれで、屋根が片斜面になっていることから、片流れ造りという。
埋葬前の遺体を安置する殯(もがり)屋など、葬送儀礼で使用する家ではないかと考えられているらしい。
今城塚古墳の埴輪があまりに立派で、三沢蓬ケ浦遺跡の破片だけで片流れの屋根であるとは、素人目にはちょっと判断つきかねるが、ここで焼かれた埴輪は東に400mほどの横隈山古墳に並べられたと考えられている。
ここは整備されており、墳丘に登れる。切り株だらけだが(笑)。
仲哀天皇の死の謎 ― 2023/12/06
小郡市大保(おおほ)にある御勢大霊石(みせたいれいせき)神社。
イオン小郡に行くとき必ず前を通る、なじみの神社だ。
ここはケタ外れに立派な由緒を持つ。
この案内板では、仲哀天皇は筑前の橿日宮(香椎宮)で崩御したのに、どうして神功皇后が三韓征伐時に亡き仲哀天皇の御形代とした石を筑後のこの地に祀ったのかがつながらない。
そのあたり、神社のパンフレット(賽銭箱の横の箱に入っている)が詳しいので、そちらで説明しよう。
仲哀天皇は熊襲征伐のため、橿日宮の本陣から軍を進めて大保まで来たところで、宝満川の清浄な地が気に入り、字(あざ)龍頭に仮陣地を置いた。
それについては境内の別の案内板にも記してある。
さて、天皇が近臣を従えて戦線を見回っていると、なんと敵の毒矢が当たって、天皇はあっけなく崩御してしまう。戦死である。
神功皇后は兵士たちの士気が下がるのを恐れて、天皇の死を隠して殯葬した。
熊襲を征伐した後、ご崩御を布告し、柩を橿日宮に移して喪に服した。
そのあと神功皇后は、石に仲哀天皇の鎧・兜を着せて軍船に乗せ、三韓征伐に向かった。
戦いに勝って凱旋すると、石を大保の殯葬の地に祀り、御勢大霊石として崇めたという。
御勢の勢(せ)とは夫(せ)のことだという。
以上が御勢大霊石神社の由緒である。
ところが、記紀では仲哀天皇の崩御のさまが全く違う。
まず日本書紀では、橿日宮(香椎宮)で神功皇后を通して神託があり、熊襲ではなく新羅国を討つようにとのことだった。
仲哀天皇は神託を信じず、熊襲を討った。ところが、勝てずに帰った。
そのあと天皇は急に病気になって、翌日には死んでしまう。
つまり、神のお告げに従わなかったので亡くなったということだ。
御勢大霊石神社の由緒の「戦死」とは丸きり異なる。
古事記ではまた違う。
香椎宮で神託を聴くのは同じだが、仲哀天皇が琴を弾いて、神功皇后に神が乗り移るのである。
神は「西方の国を私が帰服させよう」と言うのだが、ここでも天皇は耳を貸そうとしない。神は激怒する。
大臣の建内宿禰が慌てて「琴をお弾きください」と勧めるが、やがて琴の音がしなくなって既に天皇は死んでいたのである。
つまり、古事記では熊襲と戦う前に崩御しているのだ。戦死どころではない。
こうなると、権威ある記紀の記述のほうを信じたくなる。
神社の由緒といっても、伝承みたいなもんだろう…と。
しかし、である。
古事記のほうは、仲哀天皇の崩御後、神功皇后は神託通り新羅征討に行くので矛盾はない。
ところが、日本書紀では、新羅に向かわず、神の怒りを買ったはずの熊襲征伐に向かうのである。
すなわち鴨別(かものわけ)に命じて熊襲の国を討たせ、服従させた。
さらに、前回書いたように、神功皇后自ら、羽白熊鷲や田油津媛を討ち滅ぼす。
これは、夫の仲哀天皇を殺されたことに対する、復讐の掃討戦だったのではないか。
そう考えると、御勢大霊石神社の由緒が一番、筋が通っている。
さて、今年10月に大阪に2泊して、藤井寺市の仲哀天皇陵も見てきたので、紹介しておこう。
九州で不遇な死を遂げた仲哀天皇も、故郷にこんな立派な陵墓をつくってもらって、少しは救われたというべきか。
飛鳥では、やはり九州で亡くなった斉明天皇の陵も見てきたが、そのうち機会を見て紹介したい。
小郡市上岩田(神磐戸)の老松神社 ― 2023/12/06
小郡市には神功皇后・仲哀天皇ご夫妻ゆかりの地がいくつもある。
そのうち上岩田の老松神社をうっかりしていたので、昨日行ってみた。
由緒書きが非常に興味深い。
まず、上岩田の地名は元は「神磐戸」と称されていたこと。
神功皇后元年(321年)3月20日、神功皇后は現在の筑前町夜須(安)で羽白熊鷲を討つと、次に山門県の土蜘蛛、田油津媛(たぶらつひめ)を滅ぼすため、津古から舟に乗って得川(宝満川)を下り、いったんこの地に上陸した。
現在の地理ともばっちり符合する。
25日には田油津媛を討っているので、わずか数日のことであるが、皇后の行在所であったことから神磐戸と称されたのだろう。
天照大神(女神)に比される女帝(亡き仲哀天皇の摂政)であったのだ。
ここでは、武内宿禰に命じて剣を祀らせた。
おそらく羽白熊鷲を討った剣だったのではないか。
なお、ネット情報では老松神社には駐車場がないとのことで、離れたコンビニに停めて歩いていったが、上岩田公民館の横に停めれば大丈夫だ。
そのうち上岩田の老松神社をうっかりしていたので、昨日行ってみた。
由緒書きが非常に興味深い。
まず、上岩田の地名は元は「神磐戸」と称されていたこと。
神功皇后元年(321年)3月20日、神功皇后は現在の筑前町夜須(安)で羽白熊鷲を討つと、次に山門県の土蜘蛛、田油津媛(たぶらつひめ)を滅ぼすため、津古から舟に乗って得川(宝満川)を下り、いったんこの地に上陸した。
現在の地理ともばっちり符合する。
25日には田油津媛を討っているので、わずか数日のことであるが、皇后の行在所であったことから神磐戸と称されたのだろう。
天照大神(女神)に比される女帝(亡き仲哀天皇の摂政)であったのだ。
ここでは、武内宿禰に命じて剣を祀らせた。
おそらく羽白熊鷲を討った剣だったのではないか。
なお、ネット情報では老松神社には駐車場がないとのことで、離れたコンビニに停めて歩いていったが、上岩田公民館の横に停めれば大丈夫だ。
玉にどうやって穴を開けたのか③ ― 2023/12/05
日本人は可愛い鳥が大好き ― 2023/12/04
これも「小郡の古墳展」から。
平安時代の千鳥を思わせる、可愛い鳥が8羽、鏡に描かれている。
津古生掛(つこしょうがけ)古墳(3世紀後半)の木棺に副葬されていた、方格規矩鳥文鏡(ほうかくきくちょうもんきょう)だ。
説明には、後漢晩期から三国(魏)時代に製作された可能性が高いとある。
また、ここには書いてないが、方格内の銘は「位至三公」だという。
この鏡が中国鏡だというのは、あくまで「可能性」である。
私見だが、中国人がこんな可愛い鳥を好んで描くだろうか。
私は国産鏡の可能性が十分あると思う。
実際、大野城市からも4羽の可愛い小鳥を描いた鏡が出ている。
大野城心のふるさと館で開催中の特別展「大鏡の世界」図録から転載させてもらう。
どうでしょうか?
さて、津古生掛古墳について、もう少し。
小郡市埋蔵文化財調査センターを講座等で訪ねたら、収蔵庫の一部が公開されているので是非のぞいてみてください。
いつか展示されたのであろう、こんな説明もありました。
こんな立派な前方後円墳が今は何も残っていません。
全長32mと大きくはないですが、3世紀後半ですよ。
なかなかあるもんじゃありません。
発掘調査の後、宅地造成で壊され、惜しいことをしました。
右のレプリカが、この古墳のシンボル「つこっこ」、鶏形土製品です。
墳丘のくびれ部付近から転落したものが三体、見つかりました。
本物もありますが、人気者で、貸し出されていることが多いそうです。
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