豊田有恒さんの訃報が飛び込んできた2023/12/05

卑弥呼の墓はどこか2023/11/02

10月29日、福岡県糸島市の伊都文化会館であったシンポジウム「卑弥呼のクニを探る」に電車で行ってきた。

副題が「検証 邪馬台国畿内説と伊都国」で糸島市と奈良県桜井市・田原本町の三市町共催の取り組みで、先日奈良の飛鳥に行ったこともあり、これは行かねばと腰を上げたのだった。

基調報告を聞いていると、邪馬台国の候補地を考えるにあたって、桜井市の纏向遺跡は具体的な遺構や遺物で論議ができるが、九州説の場合、それがない(少ない)という指摘があり、確かにそうだと思った。
九州説、危うし!

シンポジウムで桜井市立埋文センター所長の橋本輝彦氏は、ずばり面白いことを言った。
「纏向遺跡の担当者は誰も箸墓古墳が卑弥呼の墓だとは思っていない。どうも箸墓の年代は260年以降である。年代的には(同じ纏向遺跡の)勝山古墳が卑弥呼の墓に合う」

さらに台与の墓についても言及があったが、残念ながら「ヒラ何とか」としか聞こえず、地図で見ると「ひ」で始まるのは東田大塚古墳か。
2つの古墳は前方部が長いという共通した特徴があることから、卑弥呼と台与の2人の墓だとみているらしい、



纏向遺跡から出た木製仮面の話が最後の最後に出たので、おまけ。

船の輸送力はすごい2023/07/21

ウクライナ産穀物を黒海経由で輸出することにロシアが合意しなかったというニュースで知ったのだが、船なら1隻で穀物2万~2万5000トンを運べるという。

陸路をトラックで運ぶしかないとなると、大型トラック(25トン)で1000台だ。
運転手も車もそれだけ用意するのは無理だし、道路も渋滞してどれだけ時間がかかるか分からない。
つまり事実上、不可能だ。

海路と陸路ではこんなに違う。

われわれは運送というと陸の汽車(電車)やトラックで考えることに慣れていて、水上輸送を思い浮かべることがあまりない。

だから歴史を学ぶと、古墳や城の石はどうやって運んだんだと頭を悩ますことになる。

しかし昔の人は基本、海や川を使って船で運んでいたわけだ。
それで謎が解けることも多いのではないかと思う。

世に絶対的な自由などない2023/06/24

20日付の産経新聞に、日本維新の会と国民民主党と「有志の会」が19日、改憲に向けた条文案をまとめたとある。

その中で、「行き過ぎた人権制限を防ぐため、幸福追求権を定めた憲法13条に、憲法が保障する自由・権利を『絶対に侵してはならない』との条文を加える案なども示した」という!!

今の日本のどこに「行き過ぎた人権制限」があるというのか。

むしろ人権団体のやりたい放題ではないか?

先般、稀代の悪法、LGBT法案が成立し、社会の破壊や混乱が懸念されているときに、憲法の唯一の歯止めである「公共の福祉に反しない限り」を抹消し、活動家の自由を「絶対に侵してはならない」と保障するとは、何たる不見識か!!

少々長くなるが、日本人が無邪気に信じている、フランス革命に端を発する「自由」がいかに恐ろしいものかを書きたい。

東京帝国大学助教授、36歳の平泉澄は昭和5年(1930)3月24日、横浜港から香取丸に乗って旅立った。

インド洋、紅海を経て、マルセイユに上陸したのが5月4日。
5カ月にわたってドイツの5つの大学を回ったあと、10月にフランスに入った。フランス革命の本質を究明するためである。

「幕末より既に我国に影響を与へ、明治に入つては西園寺公望、中江兆民等、フランス革命危激の思想を伝へて之を鼓吹するや、その暗雲低迷して時に迅雷人を驚かし、そして大正六年ロシア革命以後に於いては、その勢力倍化し数十倍化して、青年学徒の間に蔓延して行つたのでありますから、明治・大正・昭和に関する限り、フランス革命及びロシア革命を除外して、国史を考へる事は出来ないのであります」(『悲劇縦走』)

しかも「大抵は革命の徒のいふがままに、革命は王侯貴族の奢侈横暴、苛酷なる政治に堪へ切れずして起されたもの、その目標とし理想とする所は、自由、平等、博愛の三つであり、それは一七八九年以来掲げられて、運動の前途を照らす目標となつて来たのである、と説かれてゐるのであります」

平泉はこの説に深い疑いを抱いた。
革命当時の遺品、文書、記録だけに徹して史料を探し回った。7つの図書館、博物館のほか、古本屋や骨董屋でも史料を買い求めた。

そうして次の断案(結論)を下した。

①1789年に革命の標語になったのは、リベルテ(自由)だけだった。
②1792年にエガリテ(平等)が加わった。
③フラテルニテ(博愛)は散見するものの、自由・平等・博愛と、三つが肩を並べるのは1848年である。

平泉は自分の断案を3人の教授にぶつけた。はじめの2人は、3つとも革命当初からのものだと言って否定した。
3人目の教授は平泉の説をあっさりと認めた上で、1848年の二月革命時にラマルティーヌ(詩人で政治家)が博愛を加えたのだと断言した。平泉は自分の結論に自信を得た。

これが何を意味するか。

もしフランス革命が当初から自由・平等・博愛を理想として掲げていれば、あの忌まわしい弑逆、戦慄すべき殺戮は行われずに済んだと平泉は言う。
しかし、彼らは国王ルイ十六世、王妃マリー・アントワネットを殺し、恐怖時代といわれる1793年から翌年にかけて一万を超える人々を殺したのである。
フランス革命の歴史には修飾や欺瞞があり、それがそのままわが国に輸入されて革命の宣伝や鼓吹に用いられていることがはっきりした。

平泉はさらに作家のポール・ブールジェに接触を図る。
高齢と避暑を理由に断られるものの、代わりに読むべき良書――バルザック、ルブレー、テーヌ――を指示された。

この結果、平泉は「無限の教訓」を得た。

フランスにあってさえ、心ある人々によって、革命が決して王侯貴族の不当な抑圧によってやむを得ず起こされたものでなく、抽象的な空理空論によってみだりに自由・平等を希求し、競争・憎悪の感情を激発して他を破壊し自らをも破壊したこと、これを救うものは伝統にほかならないという思想運動が展開されていることをを知ったのである。

平泉は日本に帰ったら、明治初年以来、西園寺公望や中江兆民らによって伝えられた革命論を打破しようと決意する。

昭和6年(1931)4月、パリからロンドンに移動してからもフランス革命の研究を続けた。

そして出会ったのが、エドモンド・バーク著『フランス革命の考察』(1790年発行)である。

バークはアイルランド生まれの政治家。フランス革命から1年数カ月後にはこの本を刊行した。
平泉言うところの「フランス革命を、フランスの為に悲しむのみならず、全人類の為に悲しむべき不祥事として、之を批判し、之を憎悪したもの」。当時次々と版を重ねていることを、大英博物館の蔵書で平泉は確認している。

一方、バークの本に反対して書かれた、トーマス・ペーン著『人権』(1791年)もまた負けじと売れて、英国の思想界はバークとペーンとで二分されたらしい。しかし結局、バークの主張がまさった。

「バークの功績は、ひとりフランス革命の影響を喰止め、英国を顛落より救つたばかりでなく、保守主義の根本義を明かにして、ほしいままなる思弁に出で、抽象的なる批判を逞くする時は、すべての宗教、道徳、制度は破壊せられて無政府主義に陥る外は無いと説いて、それが保守党を力づけた所に在ります」

こうして同書は保守主義の古典として、230年読み継がれる超ロングセラーとなっている。
今すぐに手に入る日本語訳でも三種類ある。
筆者の手元にあるのは『【新訳】フランス革命の省察 「保守主義の父」かく語りき』(2011年、PHP新書)だ。編訳者の佐藤健志が、フランス革命の急進主義についてプロローグに書いている。

「社会を急速かつ徹底的につくりかえようとする試みは、以後の『革命』の基本形となる。全体主義や社会主義はむろんのこと、明治維新をきっかけとしたわが国の近代化・欧米化や、敗戦後にわき起こった民主主義礼賛なども、急進主義の影響を抜きには考えられない」

最後の指摘は重要だ。「自由・平等・博愛」と同じく、今日、民主主義を疑う人はほとんどいない。与野党を問わず、政党名が自由民主党、立憲民主党、国民民主党と、ことごとく民主主義を標榜しているのがいい例だ。

ところが敗戦後、民主主義とはほとんど共産主義と同義だった。

昭和20年10月、朝日新聞の鈴木文四郎(主筆兼編集責任担当重役)は、社内の共産主義者による首脳陣の戦争責任の追及、退陣要求に屈し、退社を余儀なくされた。
のちに「民主主義と共産主義」という文章で訴えている(没後に編まれた『文史朗文集』所収=文史朗はペンネーム)。

「共産党がこの国で終戦後成功した大きな手品は、『共産主義』を『民主主義』にすり換えて、それを巧みに使つたことである。民主主義青年同盟、日本民主主義文化連盟、民主保育連盟、民主栄養協会という工合に、『共産主義ーー』と正面からいうべきところを『民主主義』に置き換えている。選挙の時、殊に地方における演説では『民主主義』を盛んに唱えた。生れて始めて民主主義というお題目を聞かされた一般大衆の中には、マックァーサー元帥のいう民主主義も、徳田[球一]共産党書記長のいう民主主義も大した変りはないだろうと思つたものが随分多かつたようだ。そこで、『共産党に一度やらせて見たらいいじやないか。税はウンと下げるし、物価は三分の一くらいに安くするというじやないか」といつて、共産党に投票した連中も少くなかつた」

自由民主党が時に保守派が首をひねる行動を取るのは、民主主義を標榜する限り、当然の帰結なのだ。日本に真の保守政党はないと言っていい。

2020年、米大統領選をめぐって、現職のトランプ支持者を襲い、各地で暴動を起こしたアンチファ(アンチファシスト)。反ファシズムを標榜しながら、アメリカを否定し、無政府主義に近いが、これもまた源流はフランス革命の急進主義にある。

平泉澄は昭和6年5月27日、ロンドンを発し、アメリカ経由で帰国の途に就く。
留学は2年間の予定で、まだ半年以上も余裕があった。しかし、世界情勢のただならぬ雲行きに対して、わが国が甚だしく無防備であるのに居ても立っても居られなくなったのである。

原田大六の師、中山平次郎2023/06/12

昨日は青山繁晴議員の独立講演会で福岡市に出たので、その前に福岡城内の鴻臚館跡展示館に寄った。

すると思いがけず、原田大六が師事した中山平次郎の記述に遭遇した。

中山こそがそれまでの定説を覆して、鴻臚館は福岡城内にあったと唱えた人だったのだ。
そしてその通りに見つかった。

原田大六も凄いが、その師も凄かった。

隼人の歩み2023/05/27

指宿市のココはしむれの年表にあるように、隼人が日本書紀に初めて登場するのが682年だ。

となると、装飾古墳の時期とは100年ほどずれるので、両者を結びつけるのはかなり難しい。

もっとも、682年の段階では、貢ぎ物を持って服属しているので、服属していない前段階があったと思われる。

ヤマトタケルが熊襲を征伐したのが4世紀。
その後、南九州に敵のいなくなった隼人はしばらくのびのびと暮らしていただろう。

時には北上して、かつての熊襲の地を脅かしていたかもしれない。
その戦いが装飾古墳に描かれた可能性はある。

しかし、500年頃の筑紫には磐井という強力な国造(豪族)がいたので、北部九州を脅かすほどはなかっただろう。

磐井が滅ぼされたあとは、隼人になんらかの動きはあったかもしれないが、とりあえず682年には大和政権に従属の意を示す。

しかしながら律令国家への組み入れは頑強に拒否したことは年表の通りである。

加耶が世界遺産に⁉2023/05/11