記紀による任那の歴史②2023/02/13

前回、垂仁天皇2年に任那と新羅との争いが始まったと書いた。

なぜか翌3年、新羅の王の子、天日槍(あめのひぼこ)が日本にやって来る。

日本書紀によると、垂仁が人を遣わして「お前は誰か、どこの国か」と尋ねたのに対し、ヒボコは「新羅の王の子です。日本に聖王がおられると聞き、国を弟に与えてやってきました」と言って、八種のものを献上した。

新羅の建国は356年。
ちょうどこの頃のことと思われる。

つまり、弟に国を譲ったのではなく、弟に国から追われたと考えられる。

古事記のほうでは、この天之日矛(字は違うが読み方は一緒)の性格の悪さが描かれる。

新羅の沼のほとりにある賤しい女が昼寝していた。
その女陰に陽が射しているのを賤しい男が見ていると、女は孕んで赤玉を生んだ。
男はその玉を乞うて譲ってもらい、常に腰に付けていた。

ヒボコがその赤玉を手に入れて、床の辺に置くと、麗しい乙女になった。
ヒボコはまぐわって正妻とした。

妻は常に数々の珍味をヒボコに食べさせたため、ヒボコはつけあがって妻を罵るようになった。
妻は「私はあなたの妻になるべき女ではない。祖国に帰ります」と言って、小舟で海を渡り、難波に留まった。
つまり妻は日本人だったのである。
今日もこういう夫婦はきっといるだろう。

この妻が難波の比売語曽(ひめこそ)神社のアカル比売神である。

ヒボコは妻を追って難波に来たが、渡りの神が遮って入れなかった。

こういう日本人の新羅観が、2020/2/25付「スサノオは新羅を嫌悪した」につながる。

天日槍は但馬に住んだ。

時は流れて垂仁88年、天皇は但馬にある天日槍の神宝が見たいと、清彦(天日槍の曽孫)に詔した。
清彦は神宝を献上したが、刀子だけはやるまいと衣に隠した。

垂仁が清彦をねぎらって御所で酒をふるまうと、刀子が衣から覗いた。
「何の刀子か」と聞くと、清彦は「奉る神宝の一つです」と言って差し出した。
ところが、その後、御蔵から刀子が無くなった。

清彦は「刀子がひとりでに私の家にやってきましたが、今はもうありません」と言い、垂仁は畏れてそれ以上追求しなかった。

この清彦の孫が葛城の高額媛命といって、神功皇后の母親である。

つまり神功皇后にはだいぶ遠いとはいえ、天日槍の血が流れていることになる。
新羅を征伐したのは、それを知ってか知らずか。

神功皇后についてはかなり書いているので、次は応神かな…(つづく)。

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