隼人の歩み ― 2023/05/27
指宿市のココはしむれの年表にあるように、隼人が日本書紀に初めて登場するのが682年だ。
となると、装飾古墳の時期とは100年ほどずれるので、両者を結びつけるのはかなり難しい。
もっとも、682年の段階では、貢ぎ物を持って服属しているので、服属していない前段階があったと思われる。
ヤマトタケルが熊襲を征伐したのが4世紀。
その後、南九州に敵のいなくなった隼人はしばらくのびのびと暮らしていただろう。
時には北上して、かつての熊襲の地を脅かしていたかもしれない。
その戦いが装飾古墳に描かれた可能性はある。
しかし、500年頃の筑紫には磐井という強力な国造(豪族)がいたので、北部九州を脅かすほどはなかっただろう。
磐井が滅ぼされたあとは、隼人になんらかの動きはあったかもしれないが、とりあえず682年には大和政権に従属の意を示す。
しかしながら律令国家への組み入れは頑強に拒否したことは年表の通りである。
となると、装飾古墳の時期とは100年ほどずれるので、両者を結びつけるのはかなり難しい。
もっとも、682年の段階では、貢ぎ物を持って服属しているので、服属していない前段階があったと思われる。
ヤマトタケルが熊襲を征伐したのが4世紀。
その後、南九州に敵のいなくなった隼人はしばらくのびのびと暮らしていただろう。
時には北上して、かつての熊襲の地を脅かしていたかもしれない。
その戦いが装飾古墳に描かれた可能性はある。
しかし、500年頃の筑紫には磐井という強力な国造(豪族)がいたので、北部九州を脅かすほどはなかっただろう。
磐井が滅ぼされたあとは、隼人になんらかの動きはあったかもしれないが、とりあえず682年には大和政権に従属の意を示す。
しかしながら律令国家への組み入れは頑強に拒否したことは年表の通りである。
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