「城山崩壊」の舞台を訪ねて①2017/11/07

鹿児島市の城ケ谷(長田町)
小説「城山崩壊」は現代を舞台にしているが、実は昭和61年(1986)7月10日の豪雨災害を基にしている。もう30年以上前だ。

私は当時、社会部の遊軍記者。
まだ28歳で、初めて遭遇する大災害だったため非常に印象深い。

世間的には、その後の1993年(平成5年)の「8・6水害」にかき消されて忘れ去られてしまったが、私にとって水害といえば「7・10」なのだ。

データは「鹿児島ぶら歩き」というブログによくまとめてあったので、後ろのほうに引用させてもらった。

私はこのうち、午後4時ごろ発生した長田町城ヶ谷の崖崩れ現場に行くよう指示された。
主人公のオドケン(踊橋健一)と同じだ。

還暦同窓会で帰郷したついでに、一昨日(5日)、30年ぶりに現場を訪ねてみた。

昨年放送された連続テレビ小説「あさが来た」で五代友厚が注目され、誕生地の城ケ谷に記念公園が整備されたと聞いていたので、さっと行けると思っていた。

ところが、驚くべき道の狭さ。

離合できない。

そして、今も崖下に住宅が立ち並ぶ。
よくこんな危ない所に住んでるなと思う。

名所は多い。
五代友厚のほかにも、横山安武・森有礼生育の地(表札も森さん!)、椋鳩十も35年も住んでいたという(失礼ながら、よくこんな所に)。

こんな狭い所で崖が崩れて5人が生き埋めになり、消防や警察が大勢集まったわけだが、車を停めるのも容易ではなく、大変な混乱だっただろう。

私などは遠くに停めて歩いてきたのだろうが、記憶にない。

地元のおばちゃん2人に聞いたが、「30年前はいなかったから…」と、正確な場所は分からなかった。

「五代友厚誕生地」はただのがらんとした空き地。
あんなものを造るくらいなら、7・10の碑(標柱でもお地蔵さんでもいい)を建てるべきだろう。

以下、ブログ「鹿児島ぶら歩き」から抜粋

【鹿児島市を襲った、昭和61年7月10日のゲリラ豪雨】

■ 豪雨による被害状況の時系列
この日の大雨は、局地性が極めて強く、短時間に多量の降水量を観測。
被災地も鹿児島市中央部の急傾斜地や山際の危険地域で、災害が発生しました。

12時50分 大雨洪水雷雨波浪注意報発令
13時46分 田上町で「道路冠水、敷地内に流入」の通報を皮切りに通報が相次ぐ。
13時50分 大雨洪水警報に切り替え
15時00分 消防局への通報、1時間に72本(15時~16時)に達し、合計279本の通報があった
15時15分 郡元町唐湊、カクイわた前の新川が氾濫、住民に避難命令。
      新川の氾濫によって、住宅地は深い所で腰のあたりまで水に浸かる。
      同時刻、市内42両の全消防車、救急車が出動。ガケ崩れの通報が頻繁に入る。
15時57分 長田町城ヶ谷でガケ崩れ、5人生埋め2人死亡、3人救出。
      生後8ヶ月の男の子は、5時間後に救出。
16時10分 上竜尾町常安団地バス停付近で、高さ80m・幅50mにわたるガケが崩れ、5人が生き埋めとなり全員死亡。
16時15分 平之町城山観光ホテルビアガーデン下一帯の住民に避難命令。
      同時刻、市水防本部設置。
16時20分 1時間雨量74.5ミリを記録。
16時27分 平之町三育保育園裏でガケ崩れ、家屋倒壊。
16時30分 新照院町前の谷で3人生埋め、2人死亡・1人救出。
      武2丁目、武岡荘附近でガケ崩れ、1人生埋め・死亡。市災害対策本部設置。
17時40分 平之町三育保育園裏で再びガケ崩れ。6人生埋め、5人死亡・1人救出。
18時20分 西別府町海江田団地でガケ崩れ。5人生埋め、全員救出(1人重傷)。
18時26分 田上1丁目でガケ崩れ。1人生埋め・死亡。
20時30分 吉野町三船でガケ崩れ。3人生埋め、2人死亡・1人救出
22時00分 自衛隊の出動要請

■ 被害状況
鹿児島市内では午前10時半ごろから雨が降り出し、1時間降水量が46ミリ(12時40分~13時40分)を記録した頃より床下浸水や道路冠水などの被害が発生し始めました。
14時半頃には、小さなガケ崩れも起き始めていました。
1時間降水量が50ミリを超えた(14時40分~15時40分に57ミリ)頃から小河川が氾濫し、人的被害を含む大きなガケ崩れが次々に発生しました。
1時間降水量が75ミリ(15時10分~16時10分)を記録した頃が災害のピークであったようです。

雨が降り止んだ17時過ぎに3件の大きなガケ崩れが発生。とくに吉野町三船の場合は、雨が降り止んだ3時間後に発生しています。

この大雨による死者は18人、重傷者5人、軽傷者10人。
また、住家全壊66棟・半壊28棟、床上浸水263棟・床下浸水694棟にものぼりました。

【 川と化した町通り 】
この大雨では甲突川が氾濫することはありませんでしたが、濁流によって通りという通りは川と化し、商店街や飲食店などは軒並み水びたしになったそうです。
朝日通りや天神馬場、文化通り、山之口本通、二官橋通り一帯などの繁華街では、深い所で膝上まで達しました。
軽石や木切れが濁流とともに流れてきたため、通行人は逃げ惑ったそうです。