林芙美子忌に思う2022/06/16


林芙美子門司生誕説を初めて唱えたのは、門司で外科医院を開業していた井上貞邦だ。
昭和47―48年に「北九州医報」に発表した。
芙美子が亡くなった昭和26年から21年もたってからのことだ。

林芙美子の実父宮田麻太郎の店で働いていた横内種助の娘佳子は、芙美子の幼なじみである。
昭和4年の芙美子の門司での講演会をきっかけに、佳子と芙美子の交流は復活し、以来、折を見てはかなり頻繁に会うようになった。
(『現代日本文学アルバム 林芙美子』の足立巻一の論考に詳しい)

佳子は井上貞邦の養母で、井上自身も何度も芙美子に会い、写真も残っている。

私の疑問は、なぜ、井上は生前の芙美子に門司生まれかどうかを確認しなかったのか、ということだ。
なぜ、没後21年もたってから発表したのか。

井上が昭和4年に初めて芙美子に会ったとき、門司中学四年生だったというから15歳だろうか。
翌昭和5年に出た『放浪記』を読むと下関生まれと書いてあるので、祖父の横内種助に確認すると、「下関はその後よ。生まれたのは小森江じゃがいの」と言われたのが、門司・小森江出生説の根拠である。
と言っても横内種助が芙美子の出生を身近に見聞したのではなく、宮田麻太郎に後から聞いた話だという。

林芙美子が亡くなった時点で、井上貞邦は37歳ほどである。
その間、じゅうぶん自分の疑問を解く時間があったのに、それをしなかったのが不可解である。

芙美子の母キクにいたっては昭和29年まで生きていた。
芙美子の出生地を100%知っているのは、母親のキクである。
面識のあるキクに聞く機会もいくらもあったはずである。

そして昭和48年に突如として出てきた、この門司生誕説を同52年刊行の林芙美子全集(文泉堂)が無批判に採用してしまった。

編集と年譜を担当したのは今川英子(現・北九州市立文学館館長)。
当時、私立女子校の国語教諭だった。
日本女子大学大学院のゼミの担当教官だった吉田精一から頼まれた(丸投げされた?)もので、特に林芙美子を研究していたわけではない。

下関説と門司説との両論併記ならまだしも、門司生まれと断定してしまったのはいかにも愚かだったと言わざるを得ない。研究者として失格である。

このあと全集は出ていない。
林芙美子の最後の全集の年譜に門司生まれだと記載されてしまった影響は計り知れない。

今川さんも今さら門司説を訂正するのは勇気がいるだろうが、ぜひとも何らかの方法で訂正してもらいたいと願うばかりである。

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