卑弥呼が死んだ頃の古墳2022/12/20

昨日表明したとおり、鳥栖市の赤坂古墳にさっそく行ってきた。

説明板にあるように、3世紀後半の前方後方墳である。
しかし、ものによっては3世紀中頃ともいう。

そうなると大きな意味を持ってくる。

卑弥呼は247年かその翌年に死んでいる。
3世紀中頃なのだ。

つまり卑弥呼は弥生時代と古墳時代の間で死んでいるのだ。
卑弥呼が死んで弥生時代は終わったと言い換えてもいい。

しかもここ佐賀平野・筑後平野は、邪馬台国があったと目される場所だ。
だから卑弥呼との関係性を考えないわけにはいかない。

何度か書いたが、うちの近くにあった津古2号墳は保存されていないので、3世紀中頃といわれる古墳はこれが初めてだ。

卑弥呼が死んだ頃の古墳②2022/12/20

ようやく探し当てたとき、これは看板がないと絶対古墳て分からないよー!と思った。

後方部もそう大した高さじゃないが、前方部なんて探しても一体どこなのか分からない。

写真中央に小さく看板の裏が見えているように、写真に向かって右が前方部になる。

いろいろアングルを探した結果、これなら少しは前方部っぽく見えるかな?

卑弥呼が死んだ頃の古墳③2022/12/20

次は「卑弥呼の墓」との説のある、久留米市の祇園山古墳に行ってみた。

魏志倭人伝には、卑弥呼が死んだ時、奴婢百余人を殉葬したとある。
そこが卑弥呼の墓を特定する大きなポイントになる。

2013年に亡くなった森浩一さんは、私が最も信頼する考古学者だ。
2010年に書いた『倭人伝を読みなおす』(ちくま新書)は遺作と言ってもいい。

そこに書いているのだが、森さんはなんと祇園山古墳の発掘直後に見学しているのだ。

「年代は古墳時代初頭だが、この古墳の裾をとりまくように石蓋土壙墓や箱式石棺などの小規模な埋葬施設が調査範囲内だけで五二基群在していた。ぼくは発掘直後に見学したけれども、家族構成を示すのでなく、立派な石棺に葬られた方墳の主にたいする殉葬ではないかと考えた。卑弥呼の時代より半世紀あまり後の例ではあるが、参考になる」

森さんは祇園山古墳が卑弥呼の墓であることを否定していない。
「卑弥呼の時代より半世紀あまり後」だから決定できないと言っているのだ。

森さんが亡くなってから、古墳時代の始まりはもっと早いと見なされてきているようだ。
そうなると、卑弥呼の死と祇園山古墳の築造年代に差はなくなってくる。

卑弥呼が死んだ頃の古墳④2022/12/20

さあ、祇園山古墳に登ってみよう。

逆光でまぶしい。

すぐ横の眼下を九州自動車道が走っている。

卑弥呼が死んだ頃の古墳⑤2022/12/20

後ろに回ってみると、確かに方墳という形をしている。

時折り形を整えてきたのかな。

何しろ1700年以上たっているのだ。

卑弥呼が死んだ頃の古墳⑥2022/12/20

墳頂に上がると、石棺の枠部分の石がはっきりと残っている。

ここに女王・卑弥呼が眠っていたとすると、あまりに侘しく、寂しい。

しかし、卑弥呼の死が失意の死だとすれば、まことにふさわしい「失意の墓」である。

卑弥呼の時代、中央(ヤマト)は崇神朝だ。

崇神天皇は北陸道、東海道、山陽道、山陰道にそれぞれ将軍を遣わし(四道将軍)、平定した。

次は九州だろう。
危機感を持った卑弥呼は後ろ盾を求める。
景初三年(239年)に魏に使いを送り、翌年、親魏倭王の称号を受けた。

外交力でヤマト政権を牽制した卑弥呼だったが、今度は247年、南にある狗奴国(熊襲の国)と戦争になる。

卑弥呼から戦況の報告を受けた帯方郡(魏の出先)から張政らが派遣され、大夫である難升米に詔書と黄幢(黄色の軍旗)を授けた。
魏は卑弥呼を見限り、難升米を指揮官としたのである。

その直後、卑弥呼は失意のうちに死ぬ。おそらく自死だろう。

箸墓古墳のような壮大な古墳が卑弥呼の墓などとはあり得ない。
日本書紀の記述と宮内庁の比定どおり、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓である。
卑弥呼の自死を知った崇神天皇が、卑弥呼のつましい墓に対して、これみよがしに大叔母のために日本で最初の巨大前方後円墳を築いたものだろう。

箸墓は昼は人が造り、夜は神が造ったという。
前方後円墳時代の幕開けである。

九州最初の前方後円墳が17日に紹介した石塚山古墳である。