卑弥呼が死んだ頃の古墳⑨2022/12/21

九州歴史資料館のホームページに祇園山古墳の解説があるので紹介しておきたい。

https://kyureki.jp/exhibition/salon

この中から自分なりに(独断で)重要なものを抜き出してみる。

▲不明柱穴
  古墳裾部にはほかの時代の生活の痕跡がほとんどありません。柱穴もここで見られるだけなので、この柱穴は古墳が造られた時のものと考えられます。糸島市前原遺跡で「鳥居状遺構」とされる2基単位の柱穴が発見されたほか、古墳の墳丘上や横穴式石室前庭部からも柱穴が発見されています。土生田純之氏は霊魂のよりつく依り代として建てられたのではないかと考えています。

※糸島市は平原遺跡の間違いだろうか(12/13参照)。

▲墳頂部石棺の蓋石検出状況
 蓋石は約140×170㎝で、人と比べると蓋石の大きさがわかります。蓋を開けてみると棺の中だけでなく蓋石の下側に赤色顔料が塗られていました。

※この蓋石は今どこにあるのだろう。

▲墳丘裾の墓群
 墳裾からは62基の墓が発見されました。古墳のまわりに多くの墓が造られる様子は、魏志倭人伝の卑弥呼の墓の記述にある「奴婢100人あまりの殉葬」を彷彿とさせられますが、なかには古墳時代中期の墓も含まれており、すべてが古墳と同じ時期に造られた墓ではないようです。


▲古墳北辺裾西側の墓群
 裾部の墓の多くは方墳の辺に平行か垂直方向に作られており、墳丘下に作られたものはありませんでした。このことから、祇園山古墳より古い墓はなく、祇園山古墳築造を契機に周囲に造られたことがわかります。東辺の北側は墓が造られていませんが、これは固い岩盤が露出していたためとみられています。


▲裾部第1号甕棺出土玉類・鏡片(写真)
  第1号甕棺からは玉類と鏡片が出土しました。棺が斜めなので本来の位置からはずれているようです。人骨もわずかに残っていました。分析の結果、小柄な成人女性とわかりました。大型の勾玉と鏡片を持つことから、祭祀に関わる巫女だったのではないでしょうか。赤色顔料は棺に塗られていたものはベンガラでしたが、骨に付着していたのは水銀朱でした。水銀朱は貴重だったので使い分けされていたようです。

※卑弥呼に仕えた巫女の可能性が大きい。これは重要だ。後漢鏡片、5センチの大型硬玉製勾玉、2個の管玉、刀子が九歴に収蔵されているらしい。公開されているのかな。確認しなくては‼
※※確認したところ、学芸員を呼んでくれたが、所蔵品は10万点あるというので即答は得られなかった。3年前の特別展「久留米」に九歴所蔵の鏡片と高良大社所蔵の三角縁神獣鏡(伝祇園山古墳出土)が展示されたのは図録で確認できた。

▲高速道路工事後の古墳
 古墳のある丘は、高良大社の『高良玉垂宮神秘書』に「大祝職日姓子ノミコトノヒウ」と記されており、大祝家の祖である日往子命の墓に比定されており、工事前に久留米市教育員会・筑後地区郷土研究会の保存要望を出されました。これを受けて福岡県教育委員会と道路公団とが協議を行い、設計変更によって墳丘の80%を保存することになりました。祇園山古墳は昭和53年3月には県の史跡に指定され、見学できるように整備されています。

※「日姓子」「日往子」って何て読むの? まさか、ひみこ⁉

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